2014年12月29日 (月)

2014年の七つ

○エリック・クラプトン 武道館ライブ 2.21
 「来日40周年記念公演」と銘打たれたツアー。これまで何度か彼の武道館ライブに出かけたが、今まででもっともハードに徹した演奏だったように感じる。間もなく70歳とは思えぬ。力をもらう。

○高千穂の町と神楽
 「神話の故郷」として知られる高千穂。
 かつて国家の統治(政治)には「始まりの物語」が欠かせなかった。力の掌握と維持を理由づける根拠づくりは切実で、現実からの「超越」がどこかに示されなればならない。
Takatiho3_2 「神が降りた地」として挙げられる高千穂。けれども、夜の高千穂神社で毎
晩演じられる高千穂神楽は、厳かな「超越」を引き下ろす面白さに溢れている。4作ほど演じられたが、とくに興味深いのは「御神躰の舞」。別名「国生みの舞」。神話通りイザナギとイザナミが(酒を造って)抱擁しあう。神話世界が、笑いを誘う神楽となる。庶民のしたたかさを感じる。
Takatiho1 翌朝、町のコミュニティバスの始発に乗る。乗客は私一人。手入れされた棚田を車窓から眺めながら向かったのは、天岩戸神社。西本宮の遙拝所から、岩戸川を挟んで対岸の岩山に目を遣ると、アマテラスが隠れたという「天岩戸」がうかがえる。そのように、神職の方から説明を受ける(撮影禁止)。
 続いて岩戸川の渓流添いに道を下ると出現した天安河原は、アマテラスが岩戸に隠れてしまい、困った八百万の神々が相談したという場。早朝で、はじめにいたカップルが去ったあとは、私だけ。河原には小石がいたるところに積まれている。神々が集ったと物語られる洞窟内に立ち、水しぶきを上げる急流の岩場や向かいの山を仰ぎ見ていると、冷気と霊気に包まれ、怯えすら覚える。10分ほどで立ち去りたい気分に。
Takatiho2_2 もうひとつ、観光スポットである高千穂峡へ。大方の観光客は自動車で曲がりくねった道を簡単に降りるが、私はまち中から歩き、重いバッグを背負い汗を流しながら降りた。両側を高い崖で挟まれた渓谷はたしかに絶景。秘境の趣きが深まる。
 こうして散策してみると、高千穂が神が降りたという物語を演出するのにふさわしい土地であることはたしか。こじんまりした町中を歩けば、子どもたちから大人まで皆さん、私のような行きずりの旅人に挨拶の言葉をかけてくれる。大都市の街ではみられない。ありがたく受けとめ挨拶を返した。バスセンターに貼られていた写真にみえるかつての街並の勢いは薄れていても、滞在日程を延ばしたくなる町だった。

○『資本主義の終焉と歴史の危機』
 水野 和夫 (集英社新書)
Sihonshuginokiki すでに2年前に出た前著『世界経済の大潮流』に引き続き、資本制の危機(と終焉)を改めて丁寧に展開している。「成長を求めるほど危機を呼び寄せてしまう」今日の資本制の限界を省みずに、無理やりの「成長」薬を注入する現政府のやり方は、必ず怖い反動をもたらすにちがいない。「タイム・イズ・マネー」の時代は終焉を迎える、そう言い切る勇気をもつ著者は希有な存在。「西欧の終焉」をも告げる。

○宗像大社国宝展(出光美術館)
 自然との対話を、西欧キリスト教宗教学者タイラーは「アニミズム」と定義したが、そうした狭いとらわれを破ってものごとを考えるべきことを改めて教えてくれる。

○折口信夫の論考Origutitenno_2
~『折口信夫 天皇論集』(講談社文芸文庫)&「大嘗祭の本義」(『古代研究Ⅱ』所収)~
 「罪」、「負い目」の発生について深い考察を残し、近代を超える存在観を巡らすにあたりさまざまなヒントを与えてくれる。

○『借りの哲学』ナタリー・サルトゥー=ラジュ
 「借り」(負債、負い目)から文明観(哲学)をとらえるユニークな書。同時に、西欧的視点の限界も示している。

○『あたりまえのこと』樫山欽四郎
 古書店で手に入れる。
 たとえば、こういうフレーズがある。
 「科学自身は限界をもっている。それは人間に限界があることに由来する」。
Atarimaenokoto_2 1978年の出版だが、このフレーズは、半世紀以上前の1961年に書かれたエッセイにある。ヘーゲル哲学研究者である樫山さんが遺した「あたりまえのこと」は、今に至るも「近代の限界」を見ようとしない思考を厳しく批判する。
 じつに大きな思想的恩恵を私が受けてきた吉本隆明さんもまた、徹底して近代の刻印を受けている。科学技術の課題は科学技術によって解決するしかないとして、脱・反原発の論を彼は批判した。吉本さんのいう「科学技術は科学技術で……」という論はその枠内ではじつにもっともなこと。であるなら、廃棄処分も技術的解決に決着をつけられるまでは、そもそも原発を稼働させるべきではなかった。当然今日も再稼働されるべきではない。
 樫山さんの言のとおり、科学自体が限界をもっている。人間は具体的な場でしか生きられないという制約(限界)のもとで生きているからだ。そういう人間存在の負い目を「近代科学の絶対性」は問おうとしない。「人間が絶対」であろうとする近代の特徴は、科学技術と経済に示される。限界をもつ「科学」は、「科学」の外側から相対化されるしかない。そうした視線を、「素人」とか「人間(の進歩)を否定する」とか「軟弱・センチメント」(石原慎太郎)等の言辞で排すること自体、徹底した近代主義にほかならない。反・脱原発は、近代の「正義」や「イデオロギー」次元のことではない。
 福島第一原発の事故とその後、被災者と地域がこうむっている状況の重さは、いささかも軽くならない。

2014年6月25日 (水)

川上嘉彦『原風景を歩く』

○名所旧跡とは異なる「原風景」

Genhukei 六〇歳定年より少し早めに企業を退職し、第二の人生のテーマを「原風景を探し歩く」ことに据えた著者が、十数年以上にわたって旅してきたエッセイと写真をまとめたもの。旅と出会いと原風景がテーマになっている。
 旅といっても名所旧跡を訪ねるものではない。「私の旅は名所旧跡や観光地を訪ねる旅ではなく、そこに暮らす人びとのいとなみと自然が織りなす風景を訪ねる旅」と記している。
 著者の川上さんにとって、「原風景」とは、少年時代の記憶の中にある風景であり、名所旧跡や国宝、天然記念物のような権威が指定する特別なものでもなく、「ごくありふれた風景」を指す。
 さらに「原生林や大海原のような手つかずの大自然」のことでもない、という。この姿勢にとても共感する。ジャン=ジャック・ルソーのような西欧近代人が、理想として思い描いた「あってほしい自然」、「手付かずの自然」ではない。それは近代西欧的な自然観にほかならい。著者が探し歩くのは、人間の営みと馴染む自然であり、自然の営みと馴染む人間の姿だ。
 歩くところは、山野や峠、水郷、浜辺、焼きもののまち、路地、そして名もない鎮守の杜など。

○「無価値」で「凡庸」な山こそ

 山にしても、惹かれるのはいわゆる「名山」ではない。権威が指定した名山ではなく、人びとの生活と溶けあった山だ。『日本百名山』を著した作家深田久弥が「名山」の基準として、「山の品格」や「歴史」「個性」を挙げていることに対して、そんな条件とは無縁の「無価値」で「凡庸」な山を好む、と川上さんは京都北山を例にしながら書いている。京都の大学に在籍した時代、著者が何度も歩き愛した「京都北山の価値」を次のように考えている。「山が人の心にどれだけ滲み込んでいるか、人の心が山にどれだけ滲み込んでいるか、そして山と人とがどれだけ心を通わせているか」と。ここに川上さんの自然、原風景への姿勢がはっきり示されている。僭越ながら、私の野暮な表現で換言させてもらえば、山と人との「心の価値交換」ということになる。
 そんな著者の姿勢からいろいろ教えられる。私たちにとって自然とは、そういうかたちでしか存在していないのだから。人間の前に自然の像を立て置いて、人間と自然を対置させる近代的な自然観とはまったく異なる。

○土地の人から声をかけられる存在

Kawakamisan 面白く感じられるのは、山の里や、水辺のまちや、峠などさまざまなところで歩き、休息をとっている著者に、土地の人が声をかけてくるシーンがたびたび出てくること。
 土地の人は、なぜ川上さんに話しかけてくるのだろう。旅人自体がほとんどいないところを訪ねていることもあるのだろうが、異邦からやってきた旅人でしかないのに、つい土地の人が声をかけたくなるような雰囲気を川上さんが醸し出しているからだろう。訪ねた土地の色あいに馴染むところが、彼にはあるのに違いない。装ってもできることではない。著者の「人柄」、というより「存在の風あい」といったもののせいだろう。

 著者が訪ねる「原風景」の世界は、「変化が常態」(ウォーラーステイン)である近代システムの「進化」「発展」の概念とは縁遠い。たしかにビジネスでは誰もが「変化が常態」の中を生きねばならないけれど、どんなに変化を追い求めても、私たちの生活を基礎づけているのは生活の積み重ねである。いったい私たちの生活とはなんなのだろう、と静かに問いかけてくる。変化・更新・拡大を演じる近代を極めた今、生活を織りなすとはいったいどんなことなのか……。旅のエッセイでありながら、生きることの原型について私に考えさせてくれる。
 過剰な表現を排して言葉少なに語る文体だけでなく、収められた写真にも著者のものの見方が存分に示されている。
 最後は次のように結ばれている。
 「この一文が、それぞれの人が原風景について考え、自己の旅を創るきっかけになればと考えています」

冬至舎刊 定価(1,800円+税)

(写真は、霧ヶ峰を歩く川上さん)

2014年6月12日 (木)

『谷川雁 永久工作者の言霊』

『谷川雁 永久工作者の言霊』松本輝夫(平凡社新書)

Tanigawagan 谷川雁という名は、メタファーを駆使した詩人、筑豊のサークル村運動、大正炭鉱闘争、(吉本隆明・村上一郎とともに)「試行」創刊同人などとして語られることが多い。いずれも一九六〇年代前半までの話だ。
 そのあと世に突然その名が浮上したのは、七一年のテック労働争議(刑事弾圧)に経営者として関わっていたことがニュースとして否定的にとりあげられたときだった。そして以降は再び消えてしまった。彼の名を知る人にとっては、そんなふうに意識の水面で浮沈していたのが一般的だったと思う。

 しかし、そんな見方をがらりと改めさせてくれるのが『谷川雁 永久工作者の言霊』。筑豊を離れたあとの「沈黙の一五年」と言われた時期のテック(のちのラボ教育センター)での活躍、さらにテックを追われたあとの活動に光をあて、東京へ出てからの活動が、筑豊での運動と通底する志をもったものであることを明らかにしている。

 著者は谷川雁を慕いテックに入ったものの、職場では労使関係で対峙し、またのちに雁をテックから追放せざるをえなかった中心メンバーでもあった。しかし本書では、彼をこき下ろすのではなく、といって絶対視するのでもなく、適度な距離を保ちながら、しかしその思想性については敬愛し、彼の魅力と志をていねいに描いている。近年谷川雁研究会を立ちあげて主宰し、研究を続けてきた著者の取材力と筆力が冴える。
 新書判なので、原稿をかなりカットせざるをえなかったようだが、逆にコンパクトゆえに、雁の生涯の輪郭が鮮やかに示されている。若い世代にも近づきやすいはず。
 ここで掘り起こされた雁さんのフレーズに接すると、たしかに六〇年代後半の全共闘運動にも少なからぬ影響を与えていたのだな、と教えられる。
 読み終えて思うのは、雁さんはよき対立者、理解者、後輩に恵まれたなあ、もって瞑すべし、というところ。

 「三・一一」で現代文明が根底から揺らぎ始めた今こそ、学ぶべき知恵、参考にできる手がかりが雁さんにはたくさん秘められていると、本書は強調する。現代の行きづまりを打開する力をもっていると評価を加えている。たとえば、戦争と敗戦によってさえも辛うじて残り続けた縄文以来の「日本の村と自然生態系」が、その後のわずか数十年の高度成長によってトドメをさされて一挙に解体した、と見抜いた雁の彗眼を指摘する。たしかに「独創的な高度経済期批判」である。

 さて著者は、谷川が「下部へ、下部へ、根へ、根へ、」と歌い、下降しながら「存在の原点」、「万有の母」を探求した試みに、「縄文の心」を重ねている。
 かつて「試行」の仲間だった吉本隆明は、上にいくこと(世界の高次化)と下にいく(アフリカ的段階に降りる)ことが同じであるような方法を追求した。しかし、晩年の表現をみるかぎり、残念ながら引き裂かれていた。あえてそれをさらけ出したところに、吉本さんの真摯さをみることができる。
 吉本と異なり雁さんは、「無名性」の「集団創造」という方法によって、「下部へ、根へ、」の「原点」を探ろうとした。いや、そういう志向性自体に原点をみようとしたのかもしれない。
 ひとことだけ感想を添えれば、吉本とは異なるその作業もまた難しいことにおいては変わらないのではないか。それは「問いの立て方」に関わる。そもそも「工作者」「無名性」「根」「存在の原点」という立て方……。私自身の課題でもあり、別の機会にさらに論じてみたい。

2014年6月 5日 (木)

「労働の科学」四月号に寄稿

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 しばらく前のことになるが、「労働の科学」四月号に『里山資本主義 ――日本経済は「安心の原理」で動く――』(藻谷浩介、NHK広島取材班)の書評を寄稿。昨年末のブログで収穫として取りあげた一冊。
 「里山」と「資本主義」――馴染まないふたつの言葉を組み合わせて「里山資本主義」。意外なタイトルだが、多くの支持を集め、「新書大賞2014」にも選ばれている。
 マネー資本主義の猛威に憤りや不安を覚える中で、私たちがどう生き、働けばよいのか、示唆に富む内容だ。

★付記★
 『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫、集英社新書)は、このところ注目している経済学者の新著。これも数ヵ月前に読んだもので、出版されたのは三月。
 資本主義が「終焉」を迎えつつある中、これをいかにソフトランディングさせるか。とても誠実に今日の経済社会と向きあっている。

2013年12月31日 (火)

今年の10点 ~2013年~

 今年の前半は吉本隆明論(『吉本隆明と二つの「敗戦」』)の執筆・編集、後半は次のテーマの執筆にとりかかり、ほとんどその二つに集中した一年。
 そんな中、合間に接して印象に残った作品は――。

○エリック・クラプトン『OLD SOCK』

Old_sock  御年68のクラプトンのアルバム。ジャケット写真の彼は、好々爺といった感じ。私にも馴染みのある曲がたくさん選ばれ、演奏は豪華な顔ぶれが脇を固めている。
 「ALL OF ME」はポール・マッカートニーがアップライト・ベースとヴォーカルで参加。ゲイーリー・ムーアの「STILL GOT THE  BLUES」は大好きな曲だったけれど、そのアルバムをなくしていた。ハモンドオルガンのスティーヴ・ウィンウッドの参加を得て、名演奏。今年一番聴いた曲かもしれない。

○宮崎駿『風立ちぬ』

Kazetatinu_2   宮崎駿さんのアニメーション映画を劇場で観るのは、この作品が初めて。これまで熱心な受け手ではまったくなかった。
 概念としての「自然」ではなく、風や雲、草木、水の動きや音、大地の生成……ああ、この人はこれらをていねいに描くことに燃え、とことんこだわっているんだな、と気づく。二度映画館に足を運んでしまった。

○九鬼周造『いきの構造』

Ikinokozo  祇園から人力車で京都大学に通い教壇に立ったという伝説をもつ九鬼周造、昭和五年の書。

~~~~~~~~~~~
「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。
~~~~~~~~~~~

 九鬼と交わりのあったハイデガーが、とても理解できないとした「いき」についての、みごとな文体の論考。もちろん危うさも潜んでいる。

○ジャン=ポール・ジョー監督『世界が食べられなくなる日』

Taberarenakunaruhi_2   分子生物学者、ジル=エリック・セラリーニ教授が行った、遺伝子組み換え作物をラットに与えた世界初の実験。前世紀に生まれた「遺伝子組み換え」と「原子力」という二つのテクノロジーをめぐって警鐘を鳴らすドキュメンタリー。

○水野和夫『世界経済の大潮流』

 刺激的な資本主義論。こういう経済学者さんにもっともっと頑張っていただきたい。
 
○中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』

 同感するところ、多し。

○藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』

Satoyamashihonshugi  とりあげられたさまざまの事例に刺激を受ける。

○堤未果『(株)貧困大国アメリカ』

 「自由」と「民主主義」の大国の惨状は、他人事ではまったくない。

○エル・グレコ展(東京都美術館)

○吉本隆明『開店休業』(追想・画 ハルノ宵子)

 吉本さんが最晩年に書いたエッセイのそれぞれに、長女ハルノ宵子さんが追想(コメント)を付けたもの。ハルノさんの追想から、吉本さんの思考と嗜好を裏づけるいくつかの事実を知る。彼が化学調味料「味の素」を発売当初からずっと「信奉」し、梅干しなどには「真っ白の雪山のようになるまでかけ」ていたこと。奥さんの和子さんが「料理を食べることも作ることもまったく愛せなかった」ということなど。意外であったが、よくよく考えると、なるほどと合点がいく。拙著で示した吉本さんの農業論、食のとらえ方の背景と符号する。
 来年「吉本隆明全集」が晶文社から出るようだが、その刊行にあたり二人の娘さんが寄せた文章はじつに味わい深い。

2013年8月26日 (月)

毎日新聞に書評(『吉本隆明と「二つの敗戦」』)

 毎日新聞8月25日付朝刊(東京本社版)の「今週の本棚」に、拙著『吉本隆明と「二つの敗戦」』の書評が掲載された。

 その中から二箇所、フレーズを引かせていただく。

**********
吉本の思想形成の原点から丹念に彼の思考の方法論を押さえてたどるだけに、著者は吉本の原発論における飛躍と晩年の「引き裂かれ」を見逃さない。
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**********
吉本への感謝と批判を経たうえで近代の超克として、人間の「生」を贈与として受け止める著者の新たな発想が提示されている。それは吉本が晩年提唱した「存在の倫理」を深める試論として注目される。
**********

「Myaku」17号に『吉本隆明と「二つの敗戦」』書評

 「Myaku」17号(8月20日発行)に、拙著『吉本隆明と「二つの敗戦」』についての書評が掲載された。
 雑誌「Myaku」は、沖縄で「島尾敏雄論」などの評論や詩、小説を長年書いてきた比嘉加津夫さんが編集・運営する雑誌。「島尾敏雄と写真」、「今再び高木護」などの特集を毎号組んで話題を呼び、その持続的な活動は高く評価されている。
Myaku17  那覇出身の詩人「山之口 貘」を特集した今回の17号の書評コーナーに、「吉本隆明への入魂の讃歌であり、かつ決別の書でもある」というタイトルの拙著書評が掲載された。評者は松本輝夫さん。

 松本さんは、谷川雁との出会いが機縁でテック(のちのラボ教育センター)に入り労組活動で谷川と対峙したが、のちに経営参画。現在は谷川雁研究会代表、言語学者鈴木孝夫研究会(タカの会)代表などを務める御仁。これまで論じてきた谷川雁論をまとめて単行本にすべき作業に追われ、いまは多忙を極めているはずだが、「Myaku」側の依頼に応え、7ページに及ぶ渾身の批評を寄せてくれた。

(ここでは、三箇所だけフレーズを引用させていただく)

************
……、本書は、とよだの人生にあって多大な収穫とともに消し難い傷痕も残したにちがいないくだんの長期争議中を含めて長年にわたって大きな影響をうけ、精神の支えともなってきた吉本隆明への、彼の死をうけてのとよだならではの入魂の追悼とオマージュの一冊である。本書全体からとよだの真摯な謝念の声が聞こえてくるはずだ。
************

************
……、同時に本書は感謝の限りを尽くしての吉本讃歌であるとともに、その上での吉本との決別の一書でもある。こう評されることはとよだ本人にとってはもしかしたら不本意であり、抵抗感があることかもしれないが、よく読めば実質的には決別、あるいは恩返し的脱吉本の色合いが濃厚な吉本論になっているはずだ。そして、ここにこそ、つまりはこの二重性というか卓抜に均衡のとれた双面性にこそ、この一冊のかけがえなき特長と面白味、格別な存在理由があると言ってもいい。
************

************
とよだが、相当に長く親密な吉本との「心的価値」交換の歳月を経て、最後の吉本の到達点である「存在の倫理」の吟味も丁寧に行なった上で、その先に行かんとして、「贈与存在の倫理」へ! と高く志を打ち出した構えにも拍手を送りたい。
************

2013年6月21日 (金)

「経済成長」と次世代へのツケ

○「次の世代に受け渡すこと」

 福島第一原発事故から2年少々を経た今日、原発再稼働の声が政治「業界」の一部で強まっている。理由として「エネルギーの安定供給」、「経済成長」、「立地自治体の声」が挙げられている。「安全神話」が崩れ、なおかつ電力生産過程における廃物処理方法すらお手上げ状態がさらに露わになるなかでも、そう主張される。

 「3.11」より20年以上前、チェルノブイリ原発事故後に出版された『「いのち」とはなにか』で、生命科学者の柳澤桂子さんは次のように書いている。
「一五〇億年という宇宙の歴史を考えてみると、私たちはこの宇宙の中で瞬間を生きて消えてしまうはかない存在であることに気がつきます」。そして、問いかける。「人間とは何なのでしょうか。自己とは何なのでしょうか。宇宙の歴史、生命の歴史という観点から見ると、私たちが一生のうちに成し遂げる仕事のうちでもっとも重要なことは、遺伝物質をつぎの世代に受け渡すことです」と。
 生命科学者らしい視点と表現だが、いのちをしっかりつなげることを、「一生のうちに成し遂げる仕事のうちでもっとも重要なこと」としている。それはいいかえれば、新しいいのちの生誕と、そのいのちを育んでいくことだ。
 同書で柳澤さんはこうも書いている。「短期的にみて、放射能のいちばん恐ろしいことは細胞をがん化させることです。長期的には奇形児がたくさん生まれるでしょう。さらに汚染が進めば、地球は放射能に強い微生物だけの世界に変わるかもしれません。あるいは生物はまったく絶えてしまうのでしょうか」。ごく基本的なことが語られている。

○「次世代」を犠牲にする「今の成長」とは……

 しかし政治業の一部では、「今の経済成長」のために、福島の人びとのみならず、「次の世代」、以降の世代すべてにそのツケを押し付ける無責任を、あえて選びとろうとする政策が掲げられる。
 「成長」や「進歩」を一概に否定するつもりはない。仮に彼らのいう「経済成長」概念を否定しないにしても、それが原発再稼働なしでも可能であることは、さまざまな専門家が指摘していることだ。
 そして基本に立ち戻れば、次世代、子ども・孫、さらにその後の世代に、手に負えないものの処分・監視を押し付け、生存を脅かし、(間違いなく)犠牲を強いる政策を、私たちは「成長」「進歩」とは呼びがたいのではないか。
 もし「成長」「進歩」にこだわるのなら、その近代的な概念を組み替える作業が必要なはずだ。

130531

(福島原発原告団の5.31東電要請行動には、バスをチャーターして来られた福島の方々がたさくん参加し、切々たる訴えを行った)

2013年6月20日 (木)

「生産・労働と消費の関係を見直す」を寄稿

紀伊國屋書店の電子書籍として
GN21「人類再生シリーズ⑧」の
わたしたちは二十二世紀を望めるのか
が刊行された。
紀伊國屋書店の電子書籍アプリ「Kinoppy」にてダウンロード。
定価500円(税込)

小生も「生産・労働と消費の関係を見直す」を寄稿。

【目次】Proposal_2013_2

○序章
山折哲雄:未来を紡ぐ智慧を
板垣雄三:悲観的楽観主義で生きのびる
○第1章 いのちを甦らせ、自分らしく生きる 
上倉庸敬:ひたむきに愛と死を生きる-イーストウッドと小津の映画から-
宇野木洋:明日の日本に生きる魯迅の言葉――絶望から/希望へ
ムラリス:広く文学を通し、グローバル化時代の多様な文化と心豊かな生き方! 
金守良:胃瘻を巡る諸問題 -人ひとりの尊厳死とどう向き合うかー
工藤孝司:生死の視点を活かす「学び」を
片岡幸彦:「老病死生」を生きることこそ「人生の真髄」ではないか
○第2章 ライフスタイルを変える 
とよだもとゆき:生産・労働と消費の関係を見直す ~新しい「スローワーク」論の勧め~
樺島勝徳:東洋的身体観を身に付け、心身共に鍛え、自信をもって生きる道
中川 恵: 自己表現と民主化-アラブ世界の変革とこれからの日本人の生き方-
高垣友海:グローバル化社会における「言語政策」への提言
桂良太郎:自然力を文化力に!-新しい里山学への誘い-
北島義信:地域と食文化 - 伝統的食文化としての「報恩講汁」と地域再生
○第3章 コミュニティを再生する 
池田知隆:新・学問のススメ -独立自尊から独立共尊へ-
八木啓代:インターネットメディアが動かす市民革命
蔡明哲:企業活動に生かすための儒教(論語)の現代化
石崎晴巳:「世界史」の構築と共有を
竹谷裕之:ネットワーク構築による地域力再生をベースとする生活再建
古田元夫:東アジアの共通教養である漢字文化の再興・交流を
○第4章 新しい社会システムをつくる 
小林 誠:超えられた国家主権の明日を考える、コスモポリタリズムの未来
レズラズィ:未来を冷徹に予測する ―「アラブの春 」の社会経済的コスト―
嶋 努:これまでの経験を踏まえて、優れたリーダーの条件について提言する
マルチノ:EUのエネルギー政策における「市長誓約」の重要性
渡辺幸重:大震災の原発事故から「やさしさと善意を基盤とする社会」を考える
安斎育郎:脱原発社会の構築に向けて
○終 章
片岡幸彦:「文化が政治を変え、社会を変え、世界を変える」
あとがき 
執筆者紹介

写真は刊行記念イベントでの山折哲雄氏

Yamaorisi

2013年6月 8日 (土)

『吉本隆明と「二つの敗戦」』

拙著新刊!
『吉本隆明と「二つの敗戦」』
~近代の敗北と超克~
(とよだ もとゆき)

 昨年(2012年)亡くなった吉本隆明さんは「敗戦」を二度迎えている。一度目は1945年二十歳の夏。そして二度目は、自ら「第二の敗戦期」と表した近年(晩年期)。その象徴が「3.11」の福島第一原発事故だった。
 前者は、近代戦における日本の敗北だった。しかし、後者は近代戦における敗北ではない。近代(を極めた現代)自体が敗北を迎えた、ととらえるほかない。Yosimotohutatunohaisenn2
 質を異にする二つの「敗戦」は、彼の思想営為にどんなことを強いたのか。それを探りながら、近代(を極めた現代)を超える方向を本書で考えてみた。

 主な問いを列記してみる。
○なぜ「科学の進歩」を止めてはならないとして「反・脱原発」を苛烈に批判し、それを「原発稼働」と直結させたのか。
○思想営為の基本に据えた「大衆の原像」というOS(オペレーティングシステム)に、なぜ最後までこだわったのか。それはもはや時代にそぐわなくなくなり、切り替えが必要だったのではないか。
○以前から小林秀雄の限界を指摘し、「小林秀雄ってダメだね」と厳しく断じていたにもかかわらず、現在を「第二の敗戦期」とした晩年になると、敗戦後の小林秀雄の言、「僕は無智だから反省なぞしない」を強く評価するようになった。いったいなぜか。
○ヘーゲル・マルクスの歴史観を批判して「史観の拡張」をめざしたが、彼らのそれをほんとうに超えたのだろうか。
○農業問題に触発された「贈与価値」論、さらに晩年提示した「存在の倫理」は、「現代の超克」の方向を指し示しているのだろうか。
○2008年、従来の自らの営為とぶつかるような意外な慨嘆を漏らした。それはなにゆえか。

『吉本隆明と「二つの敗戦」』
~近代の敗北と超克~

(とよだもとゆき)
四六判 184ページ 定価1,500円(税別)
発行=脈発行所
メールアドレス higa20@nirai.ne.jp (電子メールで注文可)
その他京都・三月書房、一部大型書店で(「地方小出版流通センター」取扱)

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