2014年12月29日 (月)

2014年の七つ

○エリック・クラプトン 武道館ライブ 2.21
 「来日40周年記念公演」と銘打たれたツアー。これまで何度か彼の武道館ライブに出かけたが、今まででもっともハードに徹した演奏だったように感じる。間もなく70歳とは思えぬ。力をもらう。

○高千穂の町と神楽
 「神話の故郷」として知られる高千穂。
 かつて国家の統治(政治)には「始まりの物語」が欠かせなかった。力の掌握と維持を理由づける根拠づくりは切実で、現実からの「超越」がどこかに示されなればならない。
Takatiho3_2 「神が降りた地」として挙げられる高千穂。けれども、夜の高千穂神社で毎
晩演じられる高千穂神楽は、厳かな「超越」を引き下ろす面白さに溢れている。4作ほど演じられたが、とくに興味深いのは「御神躰の舞」。別名「国生みの舞」。神話通りイザナギとイザナミが(酒を造って)抱擁しあう。神話世界が、笑いを誘う神楽となる。庶民のしたたかさを感じる。
Takatiho1 翌朝、町のコミュニティバスの始発に乗る。乗客は私一人。手入れされた棚田を車窓から眺めながら向かったのは、天岩戸神社。西本宮の遙拝所から、岩戸川を挟んで対岸の岩山に目を遣ると、アマテラスが隠れたという「天岩戸」がうかがえる。そのように、神職の方から説明を受ける(撮影禁止)。
 続いて岩戸川の渓流添いに道を下ると出現した天安河原は、アマテラスが岩戸に隠れてしまい、困った八百万の神々が相談したという場。早朝で、はじめにいたカップルが去ったあとは、私だけ。河原には小石がいたるところに積まれている。神々が集ったと物語られる洞窟内に立ち、水しぶきを上げる急流の岩場や向かいの山を仰ぎ見ていると、冷気と霊気に包まれ、怯えすら覚える。10分ほどで立ち去りたい気分に。
Takatiho2_2 もうひとつ、観光スポットである高千穂峡へ。大方の観光客は自動車で曲がりくねった道を簡単に降りるが、私はまち中から歩き、重いバッグを背負い汗を流しながら降りた。両側を高い崖で挟まれた渓谷はたしかに絶景。秘境の趣きが深まる。
 こうして散策してみると、高千穂が神が降りたという物語を演出するのにふさわしい土地であることはたしか。こじんまりした町中を歩けば、子どもたちから大人まで皆さん、私のような行きずりの旅人に挨拶の言葉をかけてくれる。大都市の街ではみられない。ありがたく受けとめ挨拶を返した。バスセンターに貼られていた写真にみえるかつての街並の勢いは薄れていても、滞在日程を延ばしたくなる町だった。

○『資本主義の終焉と歴史の危機』
 水野 和夫 (集英社新書)
Sihonshuginokiki すでに2年前に出た前著『世界経済の大潮流』に引き続き、資本制の危機(と終焉)を改めて丁寧に展開している。「成長を求めるほど危機を呼び寄せてしまう」今日の資本制の限界を省みずに、無理やりの「成長」薬を注入する現政府のやり方は、必ず怖い反動をもたらすにちがいない。「タイム・イズ・マネー」の時代は終焉を迎える、そう言い切る勇気をもつ著者は希有な存在。「西欧の終焉」をも告げる。

○宗像大社国宝展(出光美術館)
 自然との対話を、西欧キリスト教宗教学者タイラーは「アニミズム」と定義したが、そうした狭いとらわれを破ってものごとを考えるべきことを改めて教えてくれる。

○折口信夫の論考Origutitenno_2
~『折口信夫 天皇論集』(講談社文芸文庫)&「大嘗祭の本義」(『古代研究Ⅱ』所収)~
 「罪」、「負い目」の発生について深い考察を残し、近代を超える存在観を巡らすにあたりさまざまなヒントを与えてくれる。

○『借りの哲学』ナタリー・サルトゥー=ラジュ
 「借り」(負債、負い目)から文明観(哲学)をとらえるユニークな書。同時に、西欧的視点の限界も示している。

○『あたりまえのこと』樫山欽四郎
 古書店で手に入れる。
 たとえば、こういうフレーズがある。
 「科学自身は限界をもっている。それは人間に限界があることに由来する」。
Atarimaenokoto_2 1978年の出版だが、このフレーズは、半世紀以上前の1961年に書かれたエッセイにある。ヘーゲル哲学研究者である樫山さんが遺した「あたりまえのこと」は、今に至るも「近代の限界」を見ようとしない思考を厳しく批判する。
 じつに大きな思想的恩恵を私が受けてきた吉本隆明さんもまた、徹底して近代の刻印を受けている。科学技術の課題は科学技術によって解決するしかないとして、脱・反原発の論を彼は批判した。吉本さんのいう「科学技術は科学技術で……」という論はその枠内ではじつにもっともなこと。であるなら、廃棄処分も技術的解決に決着をつけられるまでは、そもそも原発を稼働させるべきではなかった。当然今日も再稼働されるべきではない。
 樫山さんの言のとおり、科学自体が限界をもっている。人間は具体的な場でしか生きられないという制約(限界)のもとで生きているからだ。そういう人間存在の負い目を「近代科学の絶対性」は問おうとしない。「人間が絶対」であろうとする近代の特徴は、科学技術と経済に示される。限界をもつ「科学」は、「科学」の外側から相対化されるしかない。そうした視線を、「素人」とか「人間(の進歩)を否定する」とか「軟弱・センチメント」(石原慎太郎)等の言辞で排すること自体、徹底した近代主義にほかならない。反・脱原発は、近代の「正義」や「イデオロギー」次元のことではない。
 福島第一原発の事故とその後、被災者と地域がこうむっている状況の重さは、いささかも軽くならない。

2014年6月25日 (水)

川上嘉彦『原風景を歩く』

○名所旧跡とは異なる「原風景」

Genhukei 六〇歳定年より少し早めに企業を退職し、第二の人生のテーマを「原風景を探し歩く」ことに据えた著者が、十数年以上にわたって旅してきたエッセイと写真をまとめたもの。旅と出会いと原風景がテーマになっている。
 旅といっても名所旧跡を訪ねるものではない。「私の旅は名所旧跡や観光地を訪ねる旅ではなく、そこに暮らす人びとのいとなみと自然が織りなす風景を訪ねる旅」と記している。
 著者の川上さんにとって、「原風景」とは、少年時代の記憶の中にある風景であり、名所旧跡や国宝、天然記念物のような権威が指定する特別なものでもなく、「ごくありふれた風景」を指す。
 さらに「原生林や大海原のような手つかずの大自然」のことでもない、という。この姿勢にとても共感する。ジャン=ジャック・ルソーのような西欧近代人が、理想として思い描いた「あってほしい自然」、「手付かずの自然」ではない。それは近代西欧的な自然観にほかならい。著者が探し歩くのは、人間の営みと馴染む自然であり、自然の営みと馴染む人間の姿だ。
 歩くところは、山野や峠、水郷、浜辺、焼きもののまち、路地、そして名もない鎮守の杜など。

○「無価値」で「凡庸」な山こそ

 山にしても、惹かれるのはいわゆる「名山」ではない。権威が指定した名山ではなく、人びとの生活と溶けあった山だ。『日本百名山』を著した作家深田久弥が「名山」の基準として、「山の品格」や「歴史」「個性」を挙げていることに対して、そんな条件とは無縁の「無価値」で「凡庸」な山を好む、と川上さんは京都北山を例にしながら書いている。京都の大学に在籍した時代、著者が何度も歩き愛した「京都北山の価値」を次のように考えている。「山が人の心にどれだけ滲み込んでいるか、人の心が山にどれだけ滲み込んでいるか、そして山と人とがどれだけ心を通わせているか」と。ここに川上さんの自然、原風景への姿勢がはっきり示されている。僭越ながら、私の野暮な表現で換言させてもらえば、山と人との「心の価値交換」ということになる。
 そんな著者の姿勢からいろいろ教えられる。私たちにとって自然とは、そういうかたちでしか存在していないのだから。人間の前に自然の像を立て置いて、人間と自然を対置させる近代的な自然観とはまったく異なる。

○土地の人から声をかけられる存在

Kawakamisan 面白く感じられるのは、山の里や、水辺のまちや、峠などさまざまなところで歩き、休息をとっている著者に、土地の人が声をかけてくるシーンがたびたび出てくること。
 土地の人は、なぜ川上さんに話しかけてくるのだろう。旅人自体がほとんどいないところを訪ねていることもあるのだろうが、異邦からやってきた旅人でしかないのに、つい土地の人が声をかけたくなるような雰囲気を川上さんが醸し出しているからだろう。訪ねた土地の色あいに馴染むところが、彼にはあるのに違いない。装ってもできることではない。著者の「人柄」、というより「存在の風あい」といったもののせいだろう。

 著者が訪ねる「原風景」の世界は、「変化が常態」(ウォーラーステイン)である近代システムの「進化」「発展」の概念とは縁遠い。たしかにビジネスでは誰もが「変化が常態」の中を生きねばならないけれど、どんなに変化を追い求めても、私たちの生活を基礎づけているのは生活の積み重ねである。いったい私たちの生活とはなんなのだろう、と静かに問いかけてくる。変化・更新・拡大を演じる近代を極めた今、生活を織りなすとはいったいどんなことなのか……。旅のエッセイでありながら、生きることの原型について私に考えさせてくれる。
 過剰な表現を排して言葉少なに語る文体だけでなく、収められた写真にも著者のものの見方が存分に示されている。
 最後は次のように結ばれている。
 「この一文が、それぞれの人が原風景について考え、自己の旅を創るきっかけになればと考えています」

冬至舎刊 定価(1,800円+税)

(写真は、霧ヶ峰を歩く川上さん)

2013年12月31日 (火)

今年の10点 ~2013年~

 今年の前半は吉本隆明論(『吉本隆明と二つの「敗戦」』)の執筆・編集、後半は次のテーマの執筆にとりかかり、ほとんどその二つに集中した一年。
 そんな中、合間に接して印象に残った作品は――。

○エリック・クラプトン『OLD SOCK』

Old_sock  御年68のクラプトンのアルバム。ジャケット写真の彼は、好々爺といった感じ。私にも馴染みのある曲がたくさん選ばれ、演奏は豪華な顔ぶれが脇を固めている。
 「ALL OF ME」はポール・マッカートニーがアップライト・ベースとヴォーカルで参加。ゲイーリー・ムーアの「STILL GOT THE  BLUES」は大好きな曲だったけれど、そのアルバムをなくしていた。ハモンドオルガンのスティーヴ・ウィンウッドの参加を得て、名演奏。今年一番聴いた曲かもしれない。

○宮崎駿『風立ちぬ』

Kazetatinu_2   宮崎駿さんのアニメーション映画を劇場で観るのは、この作品が初めて。これまで熱心な受け手ではまったくなかった。
 概念としての「自然」ではなく、風や雲、草木、水の動きや音、大地の生成……ああ、この人はこれらをていねいに描くことに燃え、とことんこだわっているんだな、と気づく。二度映画館に足を運んでしまった。

○九鬼周造『いきの構造』

Ikinokozo  祇園から人力車で京都大学に通い教壇に立ったという伝説をもつ九鬼周造、昭和五年の書。

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「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。
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 九鬼と交わりのあったハイデガーが、とても理解できないとした「いき」についての、みごとな文体の論考。もちろん危うさも潜んでいる。

○ジャン=ポール・ジョー監督『世界が食べられなくなる日』

Taberarenakunaruhi_2   分子生物学者、ジル=エリック・セラリーニ教授が行った、遺伝子組み換え作物をラットに与えた世界初の実験。前世紀に生まれた「遺伝子組み換え」と「原子力」という二つのテクノロジーをめぐって警鐘を鳴らすドキュメンタリー。

○水野和夫『世界経済の大潮流』

 刺激的な資本主義論。こういう経済学者さんにもっともっと頑張っていただきたい。
 
○中沢新一・國分功一郎『哲学の自然』

 同感するところ、多し。

○藻谷浩介・NHK広島取材班『里山資本主義』

Satoyamashihonshugi  とりあげられたさまざまの事例に刺激を受ける。

○堤未果『(株)貧困大国アメリカ』

 「自由」と「民主主義」の大国の惨状は、他人事ではまったくない。

○エル・グレコ展(東京都美術館)

○吉本隆明『開店休業』(追想・画 ハルノ宵子)

 吉本さんが最晩年に書いたエッセイのそれぞれに、長女ハルノ宵子さんが追想(コメント)を付けたもの。ハルノさんの追想から、吉本さんの思考と嗜好を裏づけるいくつかの事実を知る。彼が化学調味料「味の素」を発売当初からずっと「信奉」し、梅干しなどには「真っ白の雪山のようになるまでかけ」ていたこと。奥さんの和子さんが「料理を食べることも作ることもまったく愛せなかった」ということなど。意外であったが、よくよく考えると、なるほどと合点がいく。拙著で示した吉本さんの農業論、食のとらえ方の背景と符号する。
 来年「吉本隆明全集」が晶文社から出るようだが、その刊行にあたり二人の娘さんが寄せた文章はじつに味わい深い。

2013年6月20日 (木)

「生産・労働と消費の関係を見直す」を寄稿

紀伊國屋書店の電子書籍として
GN21「人類再生シリーズ⑧」の
わたしたちは二十二世紀を望めるのか
が刊行された。
紀伊國屋書店の電子書籍アプリ「Kinoppy」にてダウンロード。
定価500円(税込)

小生も「生産・労働と消費の関係を見直す」を寄稿。

【目次】Proposal_2013_2

○序章
山折哲雄:未来を紡ぐ智慧を
板垣雄三:悲観的楽観主義で生きのびる
○第1章 いのちを甦らせ、自分らしく生きる 
上倉庸敬:ひたむきに愛と死を生きる-イーストウッドと小津の映画から-
宇野木洋:明日の日本に生きる魯迅の言葉――絶望から/希望へ
ムラリス:広く文学を通し、グローバル化時代の多様な文化と心豊かな生き方! 
金守良:胃瘻を巡る諸問題 -人ひとりの尊厳死とどう向き合うかー
工藤孝司:生死の視点を活かす「学び」を
片岡幸彦:「老病死生」を生きることこそ「人生の真髄」ではないか
○第2章 ライフスタイルを変える 
とよだもとゆき:生産・労働と消費の関係を見直す ~新しい「スローワーク」論の勧め~
樺島勝徳:東洋的身体観を身に付け、心身共に鍛え、自信をもって生きる道
中川 恵: 自己表現と民主化-アラブ世界の変革とこれからの日本人の生き方-
高垣友海:グローバル化社会における「言語政策」への提言
桂良太郎:自然力を文化力に!-新しい里山学への誘い-
北島義信:地域と食文化 - 伝統的食文化としての「報恩講汁」と地域再生
○第3章 コミュニティを再生する 
池田知隆:新・学問のススメ -独立自尊から独立共尊へ-
八木啓代:インターネットメディアが動かす市民革命
蔡明哲:企業活動に生かすための儒教(論語)の現代化
石崎晴巳:「世界史」の構築と共有を
竹谷裕之:ネットワーク構築による地域力再生をベースとする生活再建
古田元夫:東アジアの共通教養である漢字文化の再興・交流を
○第4章 新しい社会システムをつくる 
小林 誠:超えられた国家主権の明日を考える、コスモポリタリズムの未来
レズラズィ:未来を冷徹に予測する ―「アラブの春 」の社会経済的コスト―
嶋 努:これまでの経験を踏まえて、優れたリーダーの条件について提言する
マルチノ:EUのエネルギー政策における「市長誓約」の重要性
渡辺幸重:大震災の原発事故から「やさしさと善意を基盤とする社会」を考える
安斎育郎:脱原発社会の構築に向けて
○終 章
片岡幸彦:「文化が政治を変え、社会を変え、世界を変える」
あとがき 
執筆者紹介

写真は刊行記念イベントでの山折哲雄氏

Yamaorisi

2013年6月 8日 (土)

『吉本隆明と「二つの敗戦」』

拙著新刊!
『吉本隆明と「二つの敗戦」』
~近代の敗北と超克~
(とよだ もとゆき)

 昨年(2012年)亡くなった吉本隆明さんは「敗戦」を二度迎えている。一度目は1945年二十歳の夏。そして二度目は、自ら「第二の敗戦期」と表した近年(晩年期)。その象徴が「3.11」の福島第一原発事故だった。
 前者は、近代戦における日本の敗北だった。しかし、後者は近代戦における敗北ではない。近代(を極めた現代)自体が敗北を迎えた、ととらえるほかない。Yosimotohutatunohaisenn2
 質を異にする二つの「敗戦」は、彼の思想営為にどんなことを強いたのか。それを探りながら、近代(を極めた現代)を超える方向を本書で考えてみた。

 主な問いを列記してみる。
○なぜ「科学の進歩」を止めてはならないとして「反・脱原発」を苛烈に批判し、それを「原発稼働」と直結させたのか。
○思想営為の基本に据えた「大衆の原像」というOS(オペレーティングシステム)に、なぜ最後までこだわったのか。それはもはや時代にそぐわなくなくなり、切り替えが必要だったのではないか。
○以前から小林秀雄の限界を指摘し、「小林秀雄ってダメだね」と厳しく断じていたにもかかわらず、現在を「第二の敗戦期」とした晩年になると、敗戦後の小林秀雄の言、「僕は無智だから反省なぞしない」を強く評価するようになった。いったいなぜか。
○ヘーゲル・マルクスの歴史観を批判して「史観の拡張」をめざしたが、彼らのそれをほんとうに超えたのだろうか。
○農業問題に触発された「贈与価値」論、さらに晩年提示した「存在の倫理」は、「現代の超克」の方向を指し示しているのだろうか。
○2008年、従来の自らの営為とぶつかるような意外な慨嘆を漏らした。それはなにゆえか。

『吉本隆明と「二つの敗戦」』
~近代の敗北と超克~

(とよだもとゆき)
四六判 184ページ 定価1,500円(税別)
発行=脈発行所
メールアドレス higa20@nirai.ne.jp (電子メールで注文可)
その他京都・三月書房、一部大型書店で(「地方小出版流通センター」取扱)

目次等、詳細はこちら

2013年3月21日 (木)

『流砂』6号 【追悼特集】吉本隆明その重層的可能性

Rusa6  吉本隆明について追悼特集した『流砂』6号(発売=批評社、共同責任編集栗本慎一郎+三上治)が発行された(定価1200円+税)。

 特集タイトルは、「吉本隆明その重層的可能性」。
 小生も寄稿させていただいた。
 『吉本隆明と小林秀雄 ~「第二の敗戦期」と「現代の超克」~』
 晩年の吉本さんにいったい何が起きていたのか、との問いかけから、吉本さんの小林秀雄評価をめぐって論じてみた。

雑誌全体の構成は以下のとおり。

【構成】
三島由紀夫と吉本隆明…………………………三上治
革命的思考と吉本隆明の思想
―.左翼的思考の閉塞を突き破る  …………山本哲士
吉本隆明の哲学的思考…………………………新田滋
吉本隆明の彼方へ
 ―もうひとつの時間のゆくえ―……………宮内広利
吉本隆明と原発………………………………中村礼治
脱原発と社会主義の構想への探究 
 ―吉本隆明『「反核」異論』について―……山家歩
吉本親鸞論への問い.―宮沢賢治論から―…伊藤述史
吉本隆明の西行論………………………………高岡健
世界視線としての放射線の夢と胎生防御装置
 ―吉本隆明なるものを巡る私にとっての諸問題―
  ………………………………………………柴崎明
吉本隆明のまなざし、死生観………………佐竹靖邦
大衆よりの自立…………………………………柏木信
吉本隆明へのアプローチ……………………平田重正
吉本思想との出会い―吉本さん追悼………古賀英二
吉本隆明と小林秀雄
 ―「第二の敗戦期」と「現代の超克」…とよだもとゆき
問われ続けた《革命とは何か》………………菅原則生
〈関係・資質・異和・成熟〉という問題……高橋順一
■【社会運動の空間】
循環型コミュニティーにトライ
―鴨川から―……………………………………田中正治
■連載
「エチカ.」―倫理学第五部
知性の能力あるいは人間の自由について……木畑壽信
傾注とポイエーシス[六]
BNE.―半透明のリテラシーから水の透明性へ 
………………………………………大山エンリコイサム

2012年12月22日 (土)

六角堂とクリスマス

 京の臍と呼ばれる六角堂。聖徳太子ゆかりの地であり、親鸞が叡山から下り百日参籠したところでもある。
Rokakudo  池坊さんの拠点ゆえ、周囲は池坊の高いビルに囲まれている。その一角、1階にスターバックスが店を構えている。店のソファからは大きなガラス張りの前に六角堂を眺めることができる。クリスマスシーズンを迎えて、トナカイに引かれたソリとクリスマスプレゼントが生け垣に飾られている。背景に六角堂。
 六角堂に訪れるクリスマスシーズン。京のへそにクリスマスの飾り。これはこれで絵になっているところが、日本文化の特異性だろう。

 西田幾多郎の著作を探して京の古書店をいくつか回る。人文系に限られるが。寺町三条、河原町丸太町、京大周辺の店を覗く。品揃えが比較的よいのは、河原町丸太町の今村書店、東大路今出川の吉岡書店くらいか。京大周辺の古書店は、仮住まいしていた十年前よりさらに減っているように感じられる。

 夕暮れ、六波羅蜜寺を訪ね、踊り念仏に接する。前回観させていただいたのは、もう10年近く前だろうか。年末師走の13日ごろから大晦日まで限定で、日没近い時間に毎夕続けられる。
Rokuharamituji  本堂内であるにもかかわらず、一段下がった祭壇で、読経のあと、祭壇の囲むようにして回り、腰を曲げ、体勢を低くする。南無阿弥陀仏とは唱えない。そして、途中で途切れるように終わる。
 それらすべてが示しているのは、かつて念仏が弾圧された時代の名残だ。本堂で焼香したあと、御札をいただく。

2012年12月14日 (金)

2012年の五つ

 今年は3月に吉本隆明さんが亡くなり、彼の遺した様々な論考とずっと向きあい続けてきた。とても大きな影響を受けた思想家の死だったから、当然のことだ。とくに3・11と原発の問題をめぐり、彼の表現を検証せざるをえなかった。近いうちにサイトに連載を始めたい。そんなわけで、今年も新しいものに触れる機会はあまりなかった。

○ハイデガー『技術論』『放下』
 3・11後について考えているうちに、昔の理想社版選集に収められていたハイデガーの技術論に接してみた。戦後に発表されたものだが、西欧形而上学批判が基礎にあるので、近代科学を相対化してみる目は鋭い。優れた講演だ。
 「近代科学」とは「自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するのです」(『技術論』)と、近代科学の限界をはっきり指摘し、踏まえている。そこでは人間が「役立つものの仕立屋」になってしまい、傲慢にも「地上の主人顔」をしている、と。
 思惟には、「計算する思惟」と「省察する追思惟」の二種類があるけれど、前者は世界を「役立つもの」としてとらえるので、存在を見る眼を曇らせてしまう。自然現象をあらかじめ想定できるものとしてのみとらえようとする近代科学の狭さ、限界が明らかにされている。
Heidegger_2  そして当時、ノーベル賞受賞の科学者たちがボーデン湖にあるマウナウ島に集まり発表した、「科学」が人類を幸福な生活に導くという宣言に疑義を示し、原子力時代が抱える原発問題に迫っている。「計算する思惟」によって、「自然は、他に比類なき一つの巨大なガソリン・スタンドと化し、つまり現代の技術と工業とにエネルギーを供給する力源と化します」とし、それが17世紀の西欧において成立したとみている。
 翻ってみると吉本隆明さんには、酷なようだがそうした視点がみられなかった。技術はただ技術によって超えられる、とするだけだった。科学の進歩を阻止してはならないし、それを阻止するのは暗黒の時代に陥るのだ、と。たしかに時代的な背景をみておかなければならない。人間的な善悪で科学をとらえてはならないという原則を語ることで、かつての(ソフト)スターリニズム批判を貫こうとした姿勢はわかる。ただ、そこにこだわりすぎた。吉本さんも時代に規定されたのだ。そのことを素直に受けとめるべきだろう。
 むしろ問われるのは、吉本さんに「追随」する一部の人が、ハイデガーの技術論を曲解して、技術の本質は人類の主体には帰属しないのだから、人間が技術をコントロールなんてできやしないと、脱原発や反原発の声は無意味、ファシズムと批判していることだ。科学技術の進歩と、現実の生活圏での原発稼働とを短絡させる。また原子力による電力生産によってうみだされる廃物処理のことにも、まったく口を閉ざしている。

○中沢新一「『自然史過程』について」(「新潮」5月号)
 「試行」1984年5月刊の「情況への発言」で、「だが中沢さんよ」と挑発気味に始まった吉本さんと中沢さんの二人のやりとりは、のちに互いに書の解説を寄せあったり、対談する間柄になる。梅原猛も加えた『日本人は思想したか』もまた内容の濃い鼎談だった。
 中沢さんは、亡くなる数ヵ月前の吉本さんの「週刊新潮」発言について、「たとえその結論には真っ向から異を唱えなければならないとしても、私はこのインタヴューでの発言を、思想家吉本隆明の真性の思考から生まれ出たもの」と受けとめたうえで、原子核技術、原子炉の問題点を鋭く指摘し、あえて吉本の原発論に異を唱える、「原子核技術は失敗したモダン科学の象徴なのである」と。
 そして最後にこう記す。「一人の偉大な思想家を追悼するためには、その人の思想を正しく理解しながら、その人を限界づけていた時代のくびきを解いて、その人の思想に秘められていた可能性を新しい地平に開いていくことこそ、その人にふさわしい敬意の表し方であろうと、私は思った」と。
 じつにまっとうな姿勢だ。

○松任谷由実『日本の恋と、ユーミンと。』
Yuming1  松任谷由実40周年記念ベストアルバム。いつのころからか、新譜を買わなくなってしまったけれど、初期から80年代まではしっかり追いかけた。90年代前半くらいまではアルバムも買ってきた。どうあれ、荒井由実時代から40年というのはたいへんなことだ。敬意を表したい。彼女についての評論『ユーミンの吐息』を上梓したのは1989年。ユーミンについての書籍は当時まだほとんど出ていないころだった。その10年後、カメラマンと組んで『探訪松任谷由実の世界』を企画・編集・執筆した。
 今回のベスト盤を聴くと、初期・中期の作品群が傑出した輝きをまったく失っていないことを改めて感じる。当時の時代風景、肌触り、匂いがよみがえる。それに、近年の曲にも新たな発見あり。

○八代亜紀『夜のアルバム』
 近所のTSUTAYAで見つけたのが、演歌界を代表する八代亜紀さんがジャズを歌ったアルバム。ジャズのスタンダードから、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」「私は泣いています」などの日本の歌も採りあげている。若いシンガーが挑戦するジャズではなかなかない味わえない深みが、八代さんの世界にはある。かつて松尾和子が歌った「再会」は面白いアレンジ。「枯葉」は、1959年の石原裕次郎バージョンだそう。裕次郎のオリジナルは聴いたことがないが、この八代さんの「枯葉」も捨てたものではない。あえてひとつだけいえば、バラードのなかであっても、もう少しスイング感がほしかった。やはり日本人の限界なのかな。

○グレン・グールド『バッハ・パルティータ全6曲』
Partitas  グールドのバッハのなかでも、もっとも好きなパルティータ。1960年代だろうか、レコード2枚組みのものを買った。今回のCD4枚組でずいぶん廉価になっていた。「ゴールドベルク変奏曲」や「平均律クラヴィア曲集」、「二声と三声のインベンション」ももちろんよいけれど、わたしにとっては「パルティータ」が最高峰に位置している。

 ★ ★ ★

 ほかには、若手の評論家宇野常寛・濱野智史両氏の対談『希望論』(NHKブックス)が、ソーシャルメディアやデジタルネットワークがどういう地殻変動を社会にもたらしつつあるのか、その可能性を探っていて、それを措いて社会を論じることの無効を告げている。
 想い出したが、今年は珍しく惹かれたテレビドラマがあった。春に続いた「最後から二番目の恋」(脚本=岡田惠和、演出=宮本理江子ほか)。秋にもスペシャルが放映された。通勤帰り、江ノ電極楽寺駅の改札前でいつもバッグの中をまさぐってパスモ(?)を探しつづける小泉今日子と、毎度同じことをくりかえす彼女に呆れる中井貴一のやりとり、口げんかが魅力のドラマ。古民家の温もりが感じられる、ちょっと暗めで湿り気のある空間と、鎌倉・湘南の街を舞台にした二人の掛けあいは、楽しく小気味いいものだった。ヌーヴェルヴァーグの手法を用いたり、映像も魅せてくれた。
 フィリップ・ガレルの「愛の残像」は、期待して青山の映画館に出かけたが、映像はいいものの、描かれた世界はフランスインテリ階層的なこだわりにしかみえず残念。
 桑田佳祐『I LOVE YOU』では、中原中也、太宰治、与謝野晶子、高村光太郎、芥川龍之介、小林多喜二、石川啄木、宮沢賢治、夏目漱石ら、近代文学者の名作のフレーズも歌にしてしまっている。ロック調にしても、この人の力は衰えをみせない。

【番外】
○加藤智大『解』
Kai  加藤智大という名はもう忘れられつつあ るのかもしれない。7名の生命を一瞬にして奪い、10名を傷つけた秋葉原連続殺人事件の被告。死刑判決控訴中の彼の手記『解』(批評社刊)が今年刊行された。
 家庭で育った環境が彼の成長に深刻に影響を与えていることが伺える。そのひとつが、間違った相手の考えを改めさせるためには痛みを与えなければならない、ということ。かつての自らの自殺予告は、他人の「間違った考えを改めさせる」ために心理的に痛みを与えるものだったとか、「会社の間違った考え方を改めさせるために」会社のトラックを破壊して痛い目にあわせてやろうと発想している。秋葉原の事件も、そういう発想の延長でなされている。自分がこだわったネット掲示板での「成りすましら」へ心理的痛みを与えるものだった。自らそう書いている。
 その発想の根深さを示すフレーズをひとつ引用してみる。
 「私は成りすましらとのトラブルから秋葉原で人を殺傷したのではなく、成りすましらとのトラブルから成りすましらを心理的に攻撃したのだということをご理解いただきたいと思います」
 同じことを視点を変えて語っているだけにすぎないのだが、そこにこだわりつづける。実際の殺傷行為は意識のなかで霞み、ネット上の「成りすましら」への心理的攻撃だったと主張しつづけている。殺人が目的ではなかった、と。
 彼なりに反省の姿勢は伺える。けれど、ここに特徴的にみられるのは、ネットこそがリアルであり、非ネット(現実社会)は非リアルに転倒されていること。少なくとも、彼がかつてネット世界に生き、事件を起こしたときは、そのように彼の世界は構成されていた。
 顔を合わせたことのない人が集う掲示板(ネット世界)を生きることに収斂され、顔を合わせる非ネット社会は手段化される。ネットにおける関係が拠りどころになり、そこにすべてが絞りこまれ、ネット上での見えない他者への怒り、「心理的攻撃」が非ネット(「現実」社会)を手段化し、そこに存在する人を傷つけた。
 家庭的・社会的関係など事件の要因、背景をさまざまに挙げられるし、防止する手段(生き方のノウハウ等――彼自身もあとでそれを自覚しているようだ)も指摘できるが、なにより、ネット世界がこれまでリアルとされた現実社会(非ネット世界)を後景化させ、手段化させて初めて起こされた事件。そういう時代の本格的始まりを告げるものだ。
 ひとつだけ私見を述べれば、この事態をとらえなおそうとするとき必要なのは、ネット・非ネットを貫き基底に流れる心的価値交換のドラマであり、そういう視点から今日のソーシャルメディアを再考することだと思う。

2011年12月31日 (土)

「サルトルとボーヴォワール」

 イラン・デュラン=コーエン監督「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」が封切られていたことを知り、年末の渋谷に出かける。
 アルベール・カミュ、ポール・ニザンらもちらっと登場するが、タイトル通り、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールの出会いと「契約結婚」をテーマにした物語だ。
 二人はお互いに相手の恋愛を束縛せず、しかも自らの体験を偽りなく報告しあう自由恋愛の「契約結婚」を結ぶが、教え子や友人たちがからみ複雑な展開になり、ボーヴォワールの嫉妬、苦悩が中心に描かれる。彼女がサルトルの提案する自由恋愛に同意し追求する背景には、当時女性が置かれた位置への反発があった。
Sartre_2  詳細な表現は別にして映画は基本的には事実を描いている、と監督はいう。二人の交流の軌跡の詳細はわたしも知らないが、たしかに大枠はすべて事実に基づいているようにみえる。
 そして観終わって残されるのは、監督がどれだけ狙っていたのかわからないのだが、殺伐とした荒涼感だ。
 たしかに、最後は歳を重ねたサルトルとボーヴォワールが、同志として了解しあうようなシーンで結ばれる。実際そうであったろう。パリ高等師範学校のアグレガシオン試験を主席と二位で卒業した知的エリートらしく、二人が互いに生においても哲学において、刺激を与えあったこともわかる。
 それでも寂寥の感は免れがたい。それは恋愛、性愛が変転し広がっていくからではない。さまざまな嫉妬や葛藤の情が生まれるからでもない。「自由恋愛」という概念ゆえである。人格が自由な主体として自らを確立し、束縛にとらわれずに恋愛する、という哲学ゆえである。もちろん道徳主義への回帰をいいたいのではない。恋愛、性愛、情愛の本質と熱が、自由な主体確立という思考領域では掬いきれないところに存在するからだ。
 だから、(サルトルと比べると!)マッチョにみえるアメリカ人作家との性愛で、ボーヴォワールが「初めて女としての歓びを経験する」というのも、(実際そうだったのにせよ)、ありふれた「性の定型」に落ち着いているようで、いささか拍子抜けする。ただ、当時の女性の社会的束縛を解き放とうとした苦闘の軌跡ととらえる視点で観ることも必要なのだろう。

 ところで主著『存在と無』でサルトルは性的欲望について、「他人の自由な主観性を奪い取ろうとする私の根源的な試み」と定義し、それは結局、根源的な挫折に至る、ととらえている。エロティシズムについてそうとうに深く洞察したものの、伝統をひきずる西欧的知にとってエロティシズムが難所であることを、サルトルもまた示した。自由とは束縛されないことだ、という西欧的知がここでも幅を利かせている。そういう「自由」哲学の土壌が荒涼感をあとに残した。ジョルジュ・バタイユのように、エロティシズムとは死にまで至る生の称揚ととらえるほうが、西欧的知の限界を超える可能性を秘めているように思える。

2011年12月17日 (土)

今年の5作(2011年)

 振り返ってみると、今年2011年も、創世記、カント、ヘーゲル、マルクス(『資本論』『剰余価値学説史』等)、モーゼス・ヘス、マルセル・モース、鴨長明、道元、安藤昌益など、古典と接している時間がほとんどだった。3月11日の東日本大震災と原発事故とは、古典との対話のなかで考え続けてきた。それでも「浮き世離れ」が加速した感は否めない。5作も見当たらず、4作となってしまった。

◎中沢新一『日本の大転換』
 すでに本ブログに書いたとおり。日本文明の「根底からの転換」を迫る書。

◎鎌仲ひとみ 『ミツバチの羽音と地球の回転』
 映画自体は、昨年、つまり福島第一原発事故以前に制作されたものだが、3.11後、作品の重みをさらに増している。
Mitubati  中国電力の上関原発計画予定地の対岸に浮かぶ祝島島民の暮らしと反原発運動を描いたもの。島のおばちゃん、おばあちゃんたちの生き生きとした生活と闘争の活写は、女性監督だからできたのだろう。熊谷博子監督が制作した「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」(2005年)のときもそうだった。
 鎌仲監督のこの映画で、今でも鮮明に残るシーンがある。
 海辺で対峙する中国電力社員と島民のやりとり。建設強行を狙う中国電力社員の管理職とおぼしき人物が、祝島近くにやってきて船上から島民にハンドマイクで呼び掛ける。
 「このまま、本当に農業とか、第一次産業だけで、この島がよくなると、本当にお考えですか? 人口は年々、年々減っていって、お年寄りばかりの町になっていっていることは、皆さん自身が、よくおわかりではないかと思います」
 島民「どんだけ年寄りが増えようが、どんだけ厳しかろうが、祝島の人間は、自分たちの力でがんばっちょるんじゃ、お前らに、いらん世話をやかれんでも、ええ」
 中国電力社員「みなさんが心配しておられるような、海が壊れるようなことは絶対にありません。絶対と言ってよいほど壊れません」
 島民「中電が絶対と言って、絶対の試しはないじゃないか」
 ――電力会社社員のあまりのお節介・僭越発言には、さすがに客席から野次を飛ばしたくなった。

◎あがた森魚『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』
 これもブログで取りあげた。アルバム『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』の中でも、同名の曲が一番好きだが、「渓谷鉄道研究家になるんだ」や「霧のブロッケン」など佳曲が並んでいる。全12曲のほとんどが、あがた森魚の作詞・作曲。

◎宇野常寛『リトル・ピープルの時代』
Littlepeople  ビッグブラザー(大きな物語)が崩壊したあとの「リトル・ピープルの時代」として今日の社会を受けとめたうえで、わたしたちはどう構えたらよいのか――それが若い著者の課題である。村上春樹や、仮面ライダーなどのヒーロー番組の軌跡を辿りながら、道を探っている。村上春樹のとらえ方にはいくつか異を唱えたいところもあるが、基本的には著者の構え方を評価できるし、同意したい。
 貨幣と情報のネットワークの圧倒的な速度を奪い取り、「現実を書き換える/拡張するための想像力」を著者は訴える。このときデジタルテクノロジー界における変化に合わせて、「仮想現実から拡張現実へ」という流れに著者は光を見いだそうとしている。なかなかみえにくいのだが、これはわたしの労働論(スローワーク論)とも無縁ではないし、自らの課題として突きつけられているのだと思う。

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