2011年12月31日 (土)

「サルトルとボーヴォワール」

 イラン・デュラン=コーエン監督「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」が封切られていたことを知り、年末の渋谷に出かける。
 アルベール・カミュ、ポール・ニザンらもちらっと登場するが、タイトル通り、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールの出会いと「契約結婚」をテーマにした物語だ。
 二人はお互いに相手の恋愛を束縛せず、しかも自らの体験を偽りなく報告しあう自由恋愛の「契約結婚」を結ぶが、教え子や友人たちがからみ複雑な展開になり、ボーヴォワールの嫉妬、苦悩が中心に描かれる。彼女がサルトルの提案する自由恋愛に同意し追求する背景には、当時女性が置かれた位置への反発があった。
Sartre_2  詳細な表現は別にして映画は基本的には事実を描いている、と監督はいう。二人の交流の軌跡の詳細はわたしも知らないが、たしかに大枠はすべて事実に基づいているようにみえる。
 そして観終わって残されるのは、監督がどれだけ狙っていたのかわからないのだが、殺伐とした荒涼感だ。
 たしかに、最後は歳を重ねたサルトルとボーヴォワールが、同志として了解しあうようなシーンで結ばれる。実際そうであったろう。パリ高等師範学校のアグレガシオン試験を主席と二位で卒業した知的エリートらしく、二人が互いに生においても哲学において、刺激を与えあったこともわかる。
 それでも寂寥の感は免れがたい。それは恋愛、性愛が変転し広がっていくからではない。さまざまな嫉妬や葛藤の情が生まれるからでもない。「自由恋愛」という概念ゆえである。人格が自由な主体として自らを確立し、束縛にとらわれずに恋愛する、という哲学ゆえである。もちろん道徳主義への回帰をいいたいのではない。恋愛、性愛、情愛の本質と熱が、自由な主体確立という思考領域では掬いきれないところに存在するからだ。
 だから、(サルトルと比べると!)マッチョにみえるアメリカ人作家との性愛で、ボーヴォワールが「初めて女としての歓びを経験する」というのも、(実際そうだったのにせよ)、ありふれた「性の定型」に落ち着いているようで、いささか拍子抜けする。ただ、当時の女性の社会的束縛を解き放とうとした苦闘の軌跡ととらえる視点で観ることも必要なのだろう。

 ところで主著『存在と無』でサルトルは性的欲望について、「他人の自由な主観性を奪い取ろうとする私の根源的な試み」と定義し、それは結局、根源的な挫折に至る、ととらえている。エロティシズムについてそうとうに深く洞察したものの、伝統をひきずる西欧的知にとってエロティシズムが難所であることを、サルトルもまた示した。自由とは束縛されないことだ、という西欧的知がここでも幅を利かせている。そういう「自由」哲学の土壌が荒涼感をあとに残した。ジョルジュ・バタイユのように、エロティシズムとは死にまで至る生の称揚ととらえるほうが、西欧的知の限界を超える可能性を秘めているように思える。

2010年12月15日 (水)

映画『ノルウェイの森』の中の村上春樹?

 原作の小説『ノルウェイの森』は、村上春樹さんの作品としては、わたしのなかで珍しく評価が低かった。自分(の恋)をとりまく外部、社会への主人公「僕」(ワタナベトオル)の怒りのような感情が、当時の村上作品には珍しく強く吐露されていて、退いてしまうしかなかったからだ(それについては『村上春樹と小阪修平の1968年』でも少し触れた)。
 しかし、トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』は、そのあたりは抑えられ、ほぼ純粋に恋愛・性愛映画として作られている。
 原作が頭にあるせいか、筋を追うというよりは、その場その場のシーン、映像、会話、音を、流れるままに楽しめる。

 舞台となる1967年に始まり68年前後の時代風俗は、ヘアスタイルからファッション、大学構内の風景にいたるまで、当時を生きたものとしても大きな異和感なく観ることができる。最後のクレジットに、学生運動の監修だか指導を、当時早大反戦連合メンバーだった高橋公さん(自治労を経て現在ふるさと回帰支援センター)が担当しているのをみつけて、なるほど、と苦笑。

 速く流すべきは流し、ゆっくり追うべきは静かに追い、映像構成のリズム感は巧みだ。
 「直子」が入る京都の寮周辺の森、広大な草原の映像は、動的なズーミングも効果的で、「僕」と彼女の恋の心象を表すだけでなく、物語のダイナミックな展開を促す役割も果たしている。

 色調は明るめで鮮やかだ。日本人ではなく、ベトナム出身でパリ在住の監督ゆえだろうか。デジタルプロジェクター方式による放映も多少影響しているのかもしれない。フィルムのような深みは出しにくいのだろう。しかし、これはこれでこの時代に作られた映像として、受けとめることができる。むしろ好ましいのかもしれない。

 「僕」の松山ケンイチは、受動的な男を嫌味を感じさせることなく演じている。
 強く惹かれたのは、「緑」の水原希子。「直子」(菊地凛子)とは対照的な、動的で明るい存在をみごとに表していた。瞳と口元がつくりだす微笑みは強い輝きを放っている。彼女は本作一番の配役ではないだろうか。
 「永沢さん」(玉山鉄二)と「ハツミ」(初音映莉子)は、小説と同様の役割と味わいを十分示している。
 糸井重里、細野晴臣、高橋幸宏の各氏がちらっと出てくるのはご愛嬌。

 目が釘付けになったシーンがある。「緑」と「僕」がバーに入り、カウンターに腰掛ける。彼らは画面左側に位置している。「緑」がトムコリンズだったかを注文する。すると画面右側にちらりと見えるバーテンダーさんがカクテルを作り、差し出す。視線をぼんやりそのバーテンのほうへ流したとき、左側にいる「緑」と「僕」の会話が頭に入らなくなってしまった。バーテンダーが村上春樹さんそっくりだったのだ。ずいぶん若作りにはしているけれど、似ている。慌てて像を追ったが、はぐらかすような映像で確証はもてなかった。しかし、わざわざそっくりさんを登場させることもあるまい。公式HPのクレジットにも村上春樹出演は記載されていないが、おそらくお遊びで登場したのだろうと推測したが、どうだろうか。
 かつて遠藤周作さんが自身原作の映画『わたしが棄てた女』で、浅丘ルリ子の妊娠を診察する産婦人科医役を白衣で演じ、満面笑みを浮かべていたときよりはずっと好感がもてる(笑)、ということになるが。
 そのことは別にしても、もう一度みてもいいな、と感じさせてくれるフィルム(ではなくファイル)。

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