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2014年12月29日 (月)

2014年の七つ

○エリック・クラプトン 武道館ライブ 2.21
 「来日40周年記念公演」と銘打たれたツアー。これまで何度か彼の武道館ライブに出かけたが、今まででもっともハードに徹した演奏だったように感じる。間もなく70歳とは思えぬ。力をもらう。

○高千穂の町と神楽
 「神話の故郷」として知られる高千穂。
 かつて国家の統治(政治)には「始まりの物語」が欠かせなかった。力の掌握と維持を理由づける根拠づくりは切実で、現実からの「超越」がどこかに示されなればならない。
Takatiho3_2 「神が降りた地」として挙げられる高千穂。けれども、夜の高千穂神社で毎
晩演じられる高千穂神楽は、厳かな「超越」を引き下ろす面白さに溢れている。4作ほど演じられたが、とくに興味深いのは「御神躰の舞」。別名「国生みの舞」。神話通りイザナギとイザナミが(酒を造って)抱擁しあう。神話世界が、笑いを誘う神楽となる。庶民のしたたかさを感じる。
Takatiho1 翌朝、町のコミュニティバスの始発に乗る。乗客は私一人。手入れされた棚田を車窓から眺めながら向かったのは、天岩戸神社。西本宮の遙拝所から、岩戸川を挟んで対岸の岩山に目を遣ると、アマテラスが隠れたという「天岩戸」がうかがえる。そのように、神職の方から説明を受ける(撮影禁止)。
 続いて岩戸川の渓流添いに道を下ると出現した天安河原は、アマテラスが岩戸に隠れてしまい、困った八百万の神々が相談したという場。早朝で、はじめにいたカップルが去ったあとは、私だけ。河原には小石がいたるところに積まれている。神々が集ったと物語られる洞窟内に立ち、水しぶきを上げる急流の岩場や向かいの山を仰ぎ見ていると、冷気と霊気に包まれ、怯えすら覚える。10分ほどで立ち去りたい気分に。
Takatiho2_2 もうひとつ、観光スポットである高千穂峡へ。大方の観光客は自動車で曲がりくねった道を簡単に降りるが、私はまち中から歩き、重いバッグを背負い汗を流しながら降りた。両側を高い崖で挟まれた渓谷はたしかに絶景。秘境の趣きが深まる。
 こうして散策してみると、高千穂が神が降りたという物語を演出するのにふさわしい土地であることはたしか。こじんまりした町中を歩けば、子どもたちから大人まで皆さん、私のような行きずりの旅人に挨拶の言葉をかけてくれる。大都市の街ではみられない。ありがたく受けとめ挨拶を返した。バスセンターに貼られていた写真にみえるかつての街並の勢いは薄れていても、滞在日程を延ばしたくなる町だった。

○『資本主義の終焉と歴史の危機』
 水野 和夫 (集英社新書)
Sihonshuginokiki すでに2年前に出た前著『世界経済の大潮流』に引き続き、資本制の危機(と終焉)を改めて丁寧に展開している。「成長を求めるほど危機を呼び寄せてしまう」今日の資本制の限界を省みずに、無理やりの「成長」薬を注入する現政府のやり方は、必ず怖い反動をもたらすにちがいない。「タイム・イズ・マネー」の時代は終焉を迎える、そう言い切る勇気をもつ著者は希有な存在。「西欧の終焉」をも告げる。

○宗像大社国宝展(出光美術館)
 自然との対話を、西欧キリスト教宗教学者タイラーは「アニミズム」と定義したが、そうした狭いとらわれを破ってものごとを考えるべきことを改めて教えてくれる。

○折口信夫の論考Origutitenno_2
~『折口信夫 天皇論集』(講談社文芸文庫)&「大嘗祭の本義」(『古代研究Ⅱ』所収)~
 「罪」、「負い目」の発生について深い考察を残し、近代を超える存在観を巡らすにあたりさまざまなヒントを与えてくれる。

○『借りの哲学』ナタリー・サルトゥー=ラジュ
 「借り」(負債、負い目)から文明観(哲学)をとらえるユニークな書。同時に、西欧的視点の限界も示している。

○『あたりまえのこと』樫山欽四郎
 古書店で手に入れる。
 たとえば、こういうフレーズがある。
 「科学自身は限界をもっている。それは人間に限界があることに由来する」。
Atarimaenokoto_2 1978年の出版だが、このフレーズは、半世紀以上前の1961年に書かれたエッセイにある。ヘーゲル哲学研究者である樫山さんが遺した「あたりまえのこと」は、今に至るも「近代の限界」を見ようとしない思考を厳しく批判する。
 じつに大きな思想的恩恵を私が受けてきた吉本隆明さんもまた、徹底して近代の刻印を受けている。科学技術の課題は科学技術によって解決するしかないとして、脱・反原発の論を彼は批判した。吉本さんのいう「科学技術は科学技術で……」という論はその枠内ではじつにもっともなこと。であるなら、廃棄処分も技術的解決に決着をつけられるまでは、そもそも原発を稼働させるべきではなかった。当然今日も再稼働されるべきではない。
 樫山さんの言のとおり、科学自体が限界をもっている。人間は具体的な場でしか生きられないという制約(限界)のもとで生きているからだ。そういう人間存在の負い目を「近代科学の絶対性」は問おうとしない。「人間が絶対」であろうとする近代の特徴は、科学技術と経済に示される。限界をもつ「科学」は、「科学」の外側から相対化されるしかない。そうした視線を、「素人」とか「人間(の進歩)を否定する」とか「軟弱・センチメント」(石原慎太郎)等の言辞で排すること自体、徹底した近代主義にほかならない。反・脱原発は、近代の「正義」や「イデオロギー」次元のことではない。
 福島第一原発の事故とその後、被災者と地域がこうむっている状況の重さは、いささかも軽くならない。

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