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2013年11月20日 (水)

「男流」近代を問う紫琴の生涯

~内田聖子著『清水紫琴――幻の女流作家がいた』書評を「Myaku18号」に寄稿~

Shimizushikin_2   「清水紫琴」――。知らない方も多いだろう。私自身、初めて聞く名だった。明治初年生まれの「幻の女流作家」。
 維新の新体制以降、「近代化」がさまざまに急速に進められたが、女性の社会的・法的差別はなかなか解消されず、参政権獲得に至っては敗戦後まで待たなければならなかった。運動の長い歴史のスタートを切ったのは、『青鞜』で知られる平塚らいてうあたりと思っていたが、それより四半世紀前に、福田(旧姓景山)英子や清水紫琴が活躍していたことを本書で知った。
 清水紫琴は、若いころからその矛盾の中を生き、自由民権の運動に身を投じたものの、民権活動家大井憲太郎の子を宿して婚外子として出産したあと、学者と結婚。家庭を築きながら表現活動を続けてきた。しかし、人生半ばで筆を折る。そのあたりの事情にこだわりながら、著者は「痕跡すらも消し去」られそうな生涯の軌跡を少ない資料から探り、辿る。そんな評伝である。
 さまざまな問いかけを、本書は含んでいる。
 ・「書く」ということ
 ・近代化が「男流」であったこと
 ・現在が近代的権利の確立と、近代の超克という二重の課題を抱えていること

 そうしたことを、清水紫琴の生涯を辿りながら、問うているようにみえる。
 近代自体が「男流」であったことは否めない。観念と科学技術を絶対化し、自然支配、直線的進歩、効率を最優先してきた。著者の内田聖子さんは、すでに谷川雁論(『谷川雁のめがね』)や森崎和江論を著している。たとえば、男の論理について、こう書いている。

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だが言葉で構築した論理はやがては矛盾を孕み、その破綻を補うために再び言葉の銃口を必要とする。 
        (『谷川雁のめがね』)
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 谷川に対してのものだが、紛れもなく私も含む男たちが陥る近代観念の病理を指摘するものだ。もちろん、反近代が措定されればすむのでもない。近代か反近代か、というこれまでずうっと繰り返された問いかけの構造を超えることが、現在の先鋭的な課題であり、「男流」近代を相対化し撃とうとする著者のこれからの作業に期待したい。

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