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2011年12月 2日 (金)

もう一度、吉本隆明さんの原発論

 雨が降る夕暮れ、いつも通うスポーツジムの玄関内で、母親が娘を厳しく叱っている。「なんでそんなことするのっ」とかなり強い口調だ。なにもそこまで……との思いを呑み込んで横を通り過ぎようとしたが、そのあと母親の言葉を聞き、暗然とした。「雨に濡れたら絶対にいけないって、言ったでしょ。どうして雨の中、遊んでいるの」。叱られる小学生の娘さんは、黙って俯くだけだった。
 このお母さんのことを、放射性物質に過剰だと批判することはできない。母親だって子どもを叱りたくはない。女の子のほうも外で遊んでいて、なんでこんなに怒られるんだと思うだろう。
 負わなくてよいはずの心労。いわんや、福島第一原発周辺に暮らしてきて被害に遭い、さらに避難を余儀なくされている人たちをや。

 「撃論」という雑誌3号に「吉本隆明『反原発』異論」という記事があった。吉本さんが編集者のインタビューに応えている。目次をみると、寄稿者として三宅久之、町村信孝、田母神俊雄らのお歴々の名が並んでいる。
 これまでと変わらず、「反原発」を批判する吉本さんの発言だ。計り知れない知的恩恵を受けとってきた吉本さんゆえに、逆にどうしても看過できない。以前新聞記事に触れて論じたが、もう一度。
 まず彼の論を要約してみる。

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 原発は実用化するまでにおよそ100年の月日を要している。それを一度の事故でこれを放棄しようというのは、安易に過ぎる。「人間の進歩性、学問の進歩の否定」になる。
 危険度をゼロにするには、立派な囲いをして放射能を完璧に防げばいい。たとえば高さ10キロの煙突をつくり、放射性物質を人間の生活範囲にこないようにすればいい。原発の問題はお金をかけるかかけないかの問題だ。原発をやめるよりもっと出費がかかっても、技術や文明を発達させるべきだ。それが人類の特徴だ。原発をやめるのは、時代の最高の知性が考え実用化した技術、進歩を大事にする近代の考え方そのものの否定になる。
 じっくりと問題と向きあい、「賛成派は保守、反対派は革新」という単純な二元論を昇華した先でやめる結論に達したら、やめていいと思う。しかし今の段階でやめるのは中途半端で、人類の歴史を否定することになる。先の戦争の敗戦は、進歩を軽んじてきたからだ。進歩を軽んじずに、苦しくても先につなげるべきだ。
 日本人の原子力に対するアレルギーは異常だ。反対派も推進派も脅迫を使っているからだめだが、より問題なのは前者(反対派)だ。「内臓も肉体も(放射能に)当たらないようにする」「防御装置を作ってその上で原発を上手に使う」のが唯一の使い方だ。
 原発一つを廃棄するにも厖大な予算と労力が必要になる。廃棄の方法をみんな考慮したら、「それだけで神経衰弱になってしま」う。「一度発明した技術を捨て去ることはそれほど難しい」。「すでに原発というものを実用化した以上、それを完璧なものにしていく努力こそ必要」だ。
 放射能の防御装置を完備させたら「最終的には東電や政府といった国家の機構を解体して、民衆の手に委ねていく。これが重要」だ。
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 いくつかの論点がある。

◎散らかしっぱなし、やりっぱなし

 吉本さんは、原発をやめることが「進歩性、学問の進歩の否定」になるという。だがこの学問、科学とは、無邪気な子どもが知的好奇心ゆえにさまざまに遊んでも後始末はしないケースの、「散らかしっぱなし」と同じだ。なぜなら、生産過程で発生する放射性廃棄物や核のゴミをまともに処理できる技術をもたないからだ。やりっぱなし、散らかしっぱなしの技術にすぎない。そこにとどまっている。行ったきりだ。帰り道がない。それは西欧的知にほかならない。手に負えないものをつくっておいて、廃棄物は知らん顔は、「人間の進歩」とは言うまい。

◎「科学・学問の進歩」

 「科学の進歩」「学問の進歩」を否定はしない(なにを「進歩」というかは別として)。だが、この「進歩」のために、一般人たちが犠牲にならなければならない理由はない。吉本さんが終始一貫してこだわってきたはずの「一般大衆」を犠牲にするいわれはない。被害を蒙るのは、どうしてもやりたい学者さんや財界人、為政者に留めておくべきことだ。それが守れないならやめるべきで、原発で働く労働者はもとより、実際に一般に被害をもたらすべきではない。他者に根底的な被害を及ぼす技術、知を「科学の進歩」「学問の進歩」とはいわない。たんなる知的好奇心のわがままにすぎまい。

◎研究と運用・実施

 たしかに吉本さんがいうように、どんな知的な好奇心、研究も力によって否定してはならない。だが、それと現実の運用(原発稼働)とは分けて考えなければならない。廃棄・処理方法がまったく確立されていないのに運用がなされるべきではなかった。逆に、そもそも廃棄や処分の方法、技術が決まっていないのだから、すでにある厖大な核のゴミについて、これからも「研究」してもらわねば困る。責任がある。

◎自然との親和性の喪失

Kouyoukyoto  放射性物質による汚染は、自然との親和性を失わせる。ここでいう「自然」とは、人間の手が及ばないような、あるいはかつてあったと夢想してユートピア風に描く自然のことではない。いまわたしたちが生きている空間としての自然だ。つまり空気であり、水であり、雨であり、土である。わたしたちはこうした自然の恩恵ゆえに生きることができている。生きることの基本を支えてくれる基礎的自然との親和が失われつつある。朝起きて、窓を開け、青空を見上げて大気を胸一杯に吸いこむ――そうした素朴な行為も「科学の進歩」の犠牲にされねばならない。
 吉本さんのように考えれば、科学や学問の「進歩」が自然を放射性物質で汚染させても、それに対抗する科学マスクや科学的水・土壌フィルター、あるいは食物の汚染を除去するフィルターを科学・学問の力で開発し、それらをもらって放射性物質から身体を守ればよい、ということになるのだろうか。仮にそれらが可能になったとしても、そうした「進歩」の技術装置を子どもたちに負わせるのか。それは進歩の転倒ではないか。
 少なくとも、放射性物質の拡散・汚染は、大気、水、土という日々刻々わたしたちを生かしてくれる自然との親和性を失わせる。その局所的現れが、原発近くに住んでいたひとたちの「故郷」からの追放にほかならない。大地、海洋、食物の汚染も同様だ。吉本さんは自動車ができて交通事故で毎年たくさんの人が死んでいるではないか、という。だが、放射性物質汚染は、それら近代技術が生みだしてきたものとは次元が異なる。中沢新一さんの『日本の大転換』のことばを使えば、生態圏の外にあったものを無媒介に持ちこんでいる。

◎「脅迫」と断じる脅迫

 吉本さんは「日本人の原子力に対するアレルギーは異常だ」という。たしかに過剰なところもあるかもしれない。だが、それはわからない、わからなすぎるからだ。その怖さはこのくらいですよ、と確定的なデータがはっきり示されれば、心的アレルギーが「異常」か否かの判断ができる。だが、まだ確定的なことがいえない。チェルノブイリ事故でもまだデータが揃っているとはいえない。十年単位、いや百年単位でみて、そのうえで「異常」かどうか判明するのではないか。
 わたしや吉本さんのように歳を重ね、もう遠からず、という人はよいが、子や孫たちに「空気や食や土壌や雨に対する警戒の必要なんてない、そのアレルギーは異常だよ、異常にすぎるよ」と言いきれるのだろうか。原発周辺から移住した人たちは、異常にすぎないのか、あるいは移住を指示したのは為政者の脅迫にすぎないのか。
 吉本さんはこういう問いかけを「脅迫」というのだろうが、わたしには子どもや孫に「そのアレルギーは異常だよ」というほうが「脅迫」のように思える。親やじいさんの気持は、吉本さん自身がよくよくわかっていることだろう。

◎民営(株式会社)が見えていない

 吉本さんはインタビューの最後に、国家消滅の方向を示したレーニンの『国家と革命』に触れている。放射能の防御装置を完備させたら「最終的には東電や政府といった国家の機構を解体して、民衆の手に委ねていく。これが重要」だと。核のゴミも含めて防御装置を完備させることができるとはとても思えないが、もし仮にできたら、東電、国家機構を解体して「民衆の手」に委ねることが重要だ、という。
 『ハイイメージ論』でも同様だが、吉本さんは今日の社会的諸関係の組み替えをまったく想定していないから、「民衆」とは具体的には民間企業、株式会社(にいる人々)だろう。
 だが株式会社は、害がなくなる百万年といわないまでも、一万年、千年、いや百年先の安全性、防御策(廃棄・処理)に厖大な桁外れな資金など投じてはいられない。いま・ここの利益を求めるのだ。そんなことをやっていたら、企業を維持できないし、株主から経営は糾弾される。適当な期間、費用で誤魔化すしかない。それは経営者の非でもなんでもない。今日の社会のもとで株式会社(民衆の手)がとらざるをえない必然だ。安全性に多少の疑義があっても、その解消に厖大なコストをかけたら赤字倒産を招くから、そんなことはしない。当面の利益、短期・中期・長期(せいぜい10年)の利益を確保しなければならないのだ。それは企業人の人間性が「悪」であるからではない。まっとうな経営者なら採算に合わない、あるいは労働者被曝は避けたいと手を引くし、なんとしても今儲けたいと必死な経営者なら、完璧な防護などできなくても「一万年安全です」と宣言して、今の利益を求めるだろう。そう強いられているのだ。そういうことに思いを致さないで、いいかえれば今日の社会的諸関係の変革に触れずに、「民衆の手」に委ねる(民営化)などあってはならないことだ。

 雑誌の編集後記をみると、吉本さんはインタビューをした編集者さんに「エセ共産主義者」への注意を喚起した様子だ。二〇世紀後半の「スターリニスト」「ソフト・スターリニスト」をいまだに対抗イメージとして『反原発』異論を主張している。たしかにいまだって、一部政治党派や知識人、メディアにはそれに該当する部分がある。けれども3.11後の原発への大衆的批判は、少なくともそんなものとは無関係だ。「賛成派は保守、反対派は革新」という「単純な二元論」なんてすでに「昇華」されている。

 老いやさまざまな病いを抱えながらも、つねに情況への発言を怠らずにいる吉本さんの姿勢には今も頭が下がる。必死で思考していると思うからこそ、そしてこれからも彼のこれまでの営為と対話したいからこそ、あえて再度批判をさせてもらった次第。

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