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2009年10月14日 (水)

ビートルズ解散と『共同幻想論』

 吉本隆明さんの仕事を調べる機会があり、古い著書をぱらぱらとめくっていた。
 一九七二年に刊行された『敗北の構造』を手にしていて、前年講演の「自己について ~キルケゴールに関連して~」が目がとまった。
 吉本さんは、自己とは何かというキルケゴールの問いと彼の恋愛体験について語っている。ここで改めて、自己幻想、対幻想、共同幻想の位相の違いと、それを踏まえてトータルにとらえることの必要性が明らかにされている。
 三つの幻想領域の位相の違いをわきまえることは、七〇年代という当時の情況下でとくに求められることでもあった。

Let_it_be  先日ビートルズの最新リマスターCDが発売された。今回「LET IT BE」に収められたミニドキュメンタリー映像を見ていて、改めてそのことを感じた。
 スタジオ内の音響室とでもいうのだろうか、狭い室内でビートルズのメンバー四人が並んで腰掛けていたが、ジョン・レノンの脇にはオノ・ヨーコさんが寄り添っている。いわばビートルズメンバーが五人という按配だ。演奏中もジョンに密着していた。
 かつてビートルズ解散前後に観た映像でも、リハーサルやレコーディング時にジョンに密着する彼女の姿があった。当時その映像に、「それはないよ」と心のなかで呟いたことが想い出される。

 四人それぞれにさまざまな確執があったけれど、ポール、ジョージ、リンゴの三氏からみれば、こういうことが許される状態はたまったものではあるまい。「ビートルズ」というひとつの共同性の世界に対世界が持ちこまれる。しかもそこでオノ・ヨーコさんはなんのたじろぎもみせないどころか、むしろ「前衛アーティスト」としての自己存在を拡張させている気配だ。
 スタジオ(職場)内にパートナーを連れてこないという不文律が破られても、メンバー内にも外側にも、それを制止できる力がすでになくなっていたのだろう。
 解散に至る理由はいろいろあったけれど、位相の違いをわきまえないこうしたシーンは、その流れをただ加速させるだけだったにちがいない。今回のCD映像をみて、改めてそう感じざるをえなかった。

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