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2007年11月 4日 (日)

「忘却にたいする記憶の闘い」

 東大全共闘代表だった山本義隆さんは、闘争以降、物理学分野以外ではこれまで一切発言をしていないし、取材も受けず、沈黙を守っていた。ただ、東大闘争の膨大な資料類を長年かけて整理し、国会図書館に納めたことは伝えきいていた。
Toudaitousou  その山本さんが、10月に発売された、東大闘争をその内部から撮った女性カメラマンの写真集『東大全共闘 1968-1969』(写真=渡辺眸)に、闘争をめぐっての一文を寄せている。じつに珍しいことだ。

 その中で、東大医学部での学生・研修生への処分問題について、改めて触れている。処分された学生の一人が、学生・研修生と教授らがもめた現場にはおらず九州にいたのに、不当に処分された事件だ。そのことを追及されても、教授会は開き直って憚らず、その後医学部生や青医連が安田講堂を占拠すると、排除のために機動隊を導入した。
 「あまりにも無責任で、そのくせ恥知らずで弾圧的な言動」を重ねてきたその当時の教授会、個々の教授のありように、山本さんはいまも厳しく言及している。
 当時彼の書いた『知性の叛乱』に、わたしは少しばかり立ち位置が違うと生意気にも思っていたが、個別の闘いは、とにかくこうした個々の問題こそがすべてであり、一番大きなことだ。山本さんはあたりまえのことにあたりまえにずっとこだわり、その闘いを貫いてきたのだ。

 仲間だった今井澄さん(東大安田講堂攻防戦で安田講堂防衛隊長に指名され、のちに諏訪中央病院院長、2002年逝去)の追悼会のとき、山本さんは次のように語ったという。

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東大闘争の意義の一つは、それまでの東大の学生運動が法案の上程や条約の締結をめぐり街頭行動で国会に圧力をかけてゆく運動に終始していたが、ここではじめて、帝大解体を言うことによって、社会的に構造化された権力機構に自分たちのいる場で抗ってゆくという形の運動を展開したことにある。
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 もちそんそれは自らの存在とありようを厳しく問うことを伴う運動でもあった。いわゆる全共闘世代(団塊世代、ベビーブーマー)より上で六〇年安保にも近い位置にいたからこそ、全共闘運動の新しさをもこうしてとらえることができる。

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 山本義隆さんの風貌を写真で眺めると、いつも作家の吉行淳之介の姿を重ねてしまう。要するに、あまり闘士の姿形に似つかわしくない山本さんなのだが、闘争以降も大学に戻ることなく在野を貫いてきた。
 団塊世代より少し上の 将来を嘱望された優秀な院生や研究者などのこうした人たちも全共闘運動を最前線で担ってきたところに運動の理と広がりがあった。

 「いささかカッコよすぎて照れくさくもあるが」と断った上で山本さんは、ミラン・クンデラの語った「権力にたいする人間の闘いとは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない」ということばを、この貴重な写真集に寄せている。もちろんフーコーの論に象徴されるように、「権力論」はその後旋回を余儀なくされることにはなるのだが。否、フーコー自身も六〇年代後半の運動を通じてそれをつかんだというべきか。
 写真展は10月に銀座のニコンサロンで開催されていた。

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