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2007年8月20日 (月)

小阪修平さんのこと

 8月11日(土)、朝刊を一面から順にくくり、最後の社会面で訃報欄に目がゆき、言葉を失う衝撃を受けた。そこに小阪修平さんの写真が載っていた。

 現存する思想家でもっとも敬愛してやまなかった氏が逝ってしまった。今日そもそも思想家と呼べる人がほとんどみあたらない中で、小阪さんは希有な存在だった。その小阪さんが満60歳を迎えたばかりで、これからというときに急逝してしまった。

○小阪さんの表現との出会い

 80年代になってからだろうか、おそらく池袋の芳林堂で「ことがら」を手にした。氏が始めた同人誌だ。それが彼の表現との最初の出会いだったと思う。時代は70年代に残存していた硝煙の匂いもほとんど失せていたころだった。こちらとしては、80年代の空気にはなかなかなじめなかったけれど、子ども三人を抱え、とにかく生活を立て直そうとしていたときだった。

 「ことがら」創刊号だったと思うが、小さな文があった。今は手元にないので記憶がかなりぼんやりしているが、ある職場でひとりの人間の勤務状態・態度をめぐって、それをとりまく職場の仲間の心の動きをとても深く分析しているものだった。だれもが、もちろんわたしも陥りそうな、組織における心理の流れについて鋭く抉る文だった。それは権力をめぐる小論といってもよい。
 本格的な論考「制度論」の連載は小阪さんの力量を示していたが、日常のテーマに視線を忍ばせたこうした小論にも小阪さんの面目躍如たるものがあった。どこの職場でもある仲間どうしの心理の動きと、共同性について、与えられた観念に依拠せず、ていねいに分析をしようとしていた。
 制度論だけでなくこうした小文で小阪さんに共鳴した。

 そのあと、わたしが関わる同人誌や個人誌を送るようになり、淡いやりとりが始まった。
 1988年、小阪さんは河出書房新社から『非在の海』を出した。かつて東大駒場で対論した三島由紀夫を通じて戦後社会のニヒリズムを論じたものだった。
 同年その出版記念パーティがあった。案内をいただき出席した。それが実際に会った初めてだ。たしか神楽坂の出版クラブではなかったろうか。

○心配りの人

 90年代になってからだろう、小阪さんが主宰する読書会というか、勉強会のようなものに参加させてもらうようになった。
 毎月1回土曜の夜、彼の自宅がある国立の団地内集会室に10名から20名ほどが集まった。わたしと同世代も数人いたが、ほとんどは若い世代だった。
 土曜の夜なのだが、小阪さんは時間ぎりぎりに慌ててやってくることが多かった。仕事帰りだったのだろう、ヘルメットを被り、スクーターで自宅近くの集会室までやってきた。

 毎回レポーターを決めて、フーコー、レヴィナス、ハイデガーあたりのテキストを読み合わせした。わたしがレポーターのときは、ジョルジュ・バタイユをとりあげた。フーコーの『性の歴史』も担当したかもしれない。
 小阪さん自身がレポーターをすることもしばしばだった。

 小阪さんは配慮の人だった。若い人の意見にも真摯に耳を傾け答え、勉強会の空気にも気遣いした。
 会が終わると、買い出しをして、しばし団欒のときもあった。パートナーの文子さんもよく参加し、また会を支えていらした。
  『思想としての全共闘世代』のなかで全共闘運動の本質として「自発性・現場性・当事者性・対等性」を小阪さんは挙げているが、勉強会のような場(関係)でも、そういうところを自ら踏まえようといつも心しているところがあった。

○『思想としての全共闘世代』刊行
 
 2000年、京都に仮住いするようになり、しばらくやりとりも途絶えていたが、昨秋京都から戻った。ちょうど小阪さんが『思想としての全共闘世代』を著したころだった。
 年末に国立市の図書館でその講演会があるとのことで、東京にいたのでさっそく参加し、再会を果たした。

Kosakasi  長髪に帽子を被りアルチュール・ランボー(いや中原中也?)を思わせるスタイル。きちんとレジュメも用意し、1時間半ほどの講演となった。
 「全共闘運動について書くのに結局30年かかってしまった」「自分のためであり、また若い世代のためにでもある」というようなことを語る。他にも面白い発言がいくつかあったが、ここでは省くことにする。

 終了後、挨拶を交わしメールアドレスを交換し、年を越えた今年の1月、小阪さんが講義をしている朝日カルチャーセンターのあるビルのカフェで待ち合わせをした。
 カフェには講義を終えた小阪さんがすでに腰掛けていた。面と向かいあい二人で話をするのは初めてのことだったかもしれない。
 『思想としての全共闘世代』について感想を述べさせてもらい、話は全共闘運動についての他著書などについても広がった。

 この日会ったのは、こちらからセットしたもので、二つの用件があった。
 ひとつは、出版企画だった。『思想としての全共闘世代』が啓蒙的な性格をもち、とてもよくまとめられているが、他方、小阪さんが思想的により深く格闘している作業として制度論がある。そこで、『思想としての全共闘世代』をもっと深めた、両者の中間に位置するような書を出せないものか。全共闘運動をより深く論じる書を、わたしとのインタビュー形式か、あるいは対論のかたちで出版できないものか、という出版企画の提案だった。
 もうひとつは、かつてほとんど残らずに揃えていた小阪さん関係の雑誌や書籍を焼失していたので、バックナンバーが残っていれば「ことがら」を購入したいというお願いだった。

○出版の約束
 
 ハイデガーの講座を準備するためだったのかもしれない。前夜あまり寝ていないとのことで、少し疲れているようだった。煙草も吸っていたが、少し呼吸がしんどそうにみえた。
 出版企画の提案については、「望むところ」と即座に快諾してくれた。小阪さんとしては『思想としての全共闘世代』は自分にとっての全共闘総括全体の1/4くらいのものであり、制度論的なものとからめてもっと進めたいとのことだった。
 承諾を得たので、以降こちらのほうで細かい企画内容をまとめることにした。

 もうひとつの用件、「ことがら」購入については、すべてはないかもしれないが、在庫がある限り出します、と答えてくれた。

 そのあと雑談をしたが、いまなぜハイデガーなのか、吉本隆明さんのこと、アカデミズムをめぐってのことなど、あれこれ話をしてくれ、また意見を交わした。
 足元に置いたバッグの中から取りだすハイデガーの原書(たしか『存在と時間』だったと思う)はずいぶん手に馴染むようになっていた。そういえば、小阪さんは本のカバーを外し、いつも本自体を手に馴染ませるようにして深く熟読していた。

 肩を並べて歩いた帰り道、「思考するには肉体が強くないと……」「散歩すると、いろいろ考えが生まれますよ」というようなことを語っていたのが、今でも記憶に残っている。

○差し出された『非在の海』

 翌2月、真冬の日、わたしは小阪さんの住む団地へ向かった。
 彼は団地前にある小さな物置に案内してくれた。
 引越しをするのでその準備を少しずつしているところだという。書棚の中から、「ことがら」を何号分か出してくれた。付箋が貼られたものもあった。創刊号ともう一号が欠番だったが、ありがたい限りだ。
 「どうぜ整理するので、物置内にある本で必要なものがあればどうぞ」とまで言ってくれる。
 4畳くらいだろうか、物置内を眺め回していて、学藝書林の全集「現代文学の発見」の何冊かが目に留めた。若い頃揃えていた全集だったが、なくしていたものだ。「歴史への視点」「性の追求」「証言としての文学」「革命と転向」の4冊があった。許しを求めると、「ああ、この全集はぼくたちの若いころの教養書みたいなものでしたね。どうぞどうぞ」ということで、4冊をいただくことにした。

Hizainoumi  わたしがさらに物置内を見渡していると、小阪さんは自宅に戻って、一冊のハードカバーを持ってきた。『非在の海』だ。刊行後すぐに買い読んでいたし、出版パーティにも出たが、焼失していたので、手元にはない。
 「あなたにはぜひこれを持っていってもらいたいな」とことばを添えて差し出してくれた。
 購入をすべきだったのだろうが、言葉に甘えて遠慮なくいただくことにした。

 「少しお茶でもどうですか」と声をかけていただいたが、いずれ二人での単行本企画で何度も何度もたっぷり対談するつもりでいたので、そのときはすぐに別れた。
 そしてそれが最後となってしまった……。

 イデオロギーに収斂させず、倫理主義にも回収させず、もちろん自慢話にも堕ちず、つかまされてしまった自分の体験と向きあい、全共闘的なるものと対峙しつづけてきた。
 ヘーゲル、マルクスからハイデガー、フーコー、現代哲学まで踏まえながら全共闘運動的なものをとらえなおそうとしてきた。それは60年代後半のみならず、現代社会を問う作業でもある。
 だからこそ、わたしがもっとも注目していた表現者であり、思想家といいうる数少ない人の一人であった。
 いよいよこれからが本格的な著述に向かうものと思われていただけに、まことに残念だ。現代の思想にとってもたいへんな痛手だ。表しようのない無念が広がる。
 合掌。

 ★更新情報★ ◎『ハイイメージ論Ⅲ』5 「生産と消費の遅延をめぐって」 ◎ 『ハイイメージ論Ⅲ』6 「生産を後景に追いやることの是非」
   >知の岸辺にて

2007年8月 9日 (木)

意表を衝く京の庭

 名庭と呼ばれるところで、心を構えてじっくり味わうのは別にして、とくに大きな期待をしていなかったのに、突然眼前に現れた造型に意表を衝かれる庭園がときにはある。
 これまでの経験で思いつくまま挙げると、相国寺、大河内山荘、蓮華寺あたり。

 相国寺の方丈裏の庭は、ふだん拝観はできない。いつだったか、特別拝観期間の休日、人気のない方丈裏へ回った。
P3240006  禅宗の庭園は、石と白砂で抽象化した石庭が多い。ところが起伏と緑を存分に配置したその庭は、相当にダイナミックなものだった。あまり説明的な庭には退きがちだが、この空間の動的な線はすごい。
 相国寺は京都の仮住いのすぐ近くにあったので、よく境内を自転車で走ったものだったが、結局その庭を目にしたのは一度だけだった。

 三宅八幡の蓮華寺は、二度目は梅雨時に訪ねた。
P1010049  鐘楼堂前、雨をたっぷり吸いこんだ苔の上に、夏ツバキの花がたくさん落ちている。それも花の形状を保ったまま、ばさっとダイナミックに落ちている。雨上がりの日、その白花弁と苔の緑のコントラストが鮮やかだった。写真が手ぶれしてしまったのが残念だ。

 嵯峨野の大河内山荘。御堂の脇から山を少し上がると、木立の奥に見えるのは茶室滴水庵。手前に苔の広がる庭。禅宗的な庭園配置をさせているわけではないが、木々の合間から差す陽が苔の上に織りなす模様と、苔と木立が成す造型はなかなかだ。紅葉時もよい。
P1010169  山荘の北には、小倉池、カフェアイトワ、常寂光寺が続く。

 ★吉本隆明『ハイイメージ論Ⅲ』-4(「『理想の存在』が抱える矛盾」)更新  以下へ
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2007年8月 4日 (土)

輝く海

 海といえば、むかしは西伊豆まで出かけていたが、このところは近場の湘南へ出ることが多い。一泊くらいしかできないので、伊豆では遠すぎることもある。
Img_1291    森戸、長者ヶ崎、立石、秋谷あたり。
 それでも海の匂いをかぎ、輝く海に目を遣り、海に浮かび、泳ぎついた岩場に腰を下ろし、ぼおっと太洋を眺めることができる。
 全身を海に浸し、浮かぶ至福の時間。一年に一度は必要だ。

Img_1303    食事処は、長者ヶ崎のブラージュ・スッド、立石のマーロウあたりがガイドブックにも登場する定番だが、今回はブラージュ・スッドのほか、森戸のコスタ・デ・ソル、佐島のかねきへも。
Img_1223  昼下がりのスペイン料理の店コスタ・デ・ソルでは、スタン・ゲッツとジョアンジルベルトのイパネマの娘など流れている。

 地魚料理の店、佐島マリーナ近くのかねきは、昨夏につづき二度目。店構えは素っ気ないが、二枚目の若主人がその日穫れた魚貝を捌いてくれる。値段も手頃で良心的だ。今回は鮑をオーダーすると、現物を示し、値段を伝えてから料理してくれる。
 歯ごたえ、味ともに抜群だ。

※吉本隆明『ハイイメージ論Ⅲ』-3(「歴史の無意識と意識」)更新
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