« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月22日 (日)

「床」間近の鴨川で京女論

 木屋町通の「露瑚」へ。5月から始まる鴨川の「床」の準備も整い、行燈が置かれている。その床と川を眺めながら、京キース氏と一献傾ける。
Ayu_1   こちらの料理は旨い。一品、一品、楽しめ、味わえる。写真は若鮎の炭火焼き。酢味のたれに浸けて食べる。筍ご飯も椀ものもおいしい。大仰に構えずにさりげないが、みな旨い。
 根っからの京女である女将の、もの静かなもてなしも、他では味わえない。

 その席でいつもの京都談義に。
 Slownetでお願いしている作家の檜山良昭さんの日刊連載もの(「閑散余録」)に、こんなフレーズがある。学生時代、京都住いをしていた檜山さん(常陸国の出身)が、付き合っていた生粋の京女を口説いていたとき、逆に彼女から説教されたセリフだ。
 「あんたなあ、東夷(あずまえびす)に京女が玉の肌を許すなんて、昔ならありえないこっちゃで。最高の屈辱やで。わかっとるか。コレ、聞いとるか? ありがたく思わんとイカンよ」
 このあと、二人の間がどんな展開になったのか、檜山さんは詳らかにしていないけれど、こういう言葉、京女は吐きそうではある。口説かれても、ただでは許さず説教をするのだろう。
 この話を京キース氏にぶつけると、「そんなの、あたりまえやんか」と一蹴された。

 酒も進んで、たまたま鴨沂(おうき)高校の話題になった。荒神口を西に入り御所に接する府立高校だ。
 「たしか沢田研二も鴨沂高校でしたよね」と私が知っていたネタを振ると、彼の“京都事典”に入っていなかったらしく、「うーん、どうやったかな。まあ、彼、京都出身じゃないからね。鳥取の生まれだから」と苦し紛れに切り返してきた。いやはや。

Yukatekkotu  翌朝、三条大橋脇のスタバ地階へ。床の鉄骨が組まれ、こちらも川床の準備は万端のよう。

2007年4月 8日 (日)

『中原中也 帝都慕情』と中也の下宿先

○中原中也・長谷川泰子・小林秀雄

 中原中也の真面目な読者ではないが、歌人福島泰樹さんの新刊ということで『中原中也 帝都慕情』を手にする。 中也がいっとき京都に住んでいたことは、福島さんの歌で覚えていた。

  中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

Teitobojou_1  『中原中也 帝都慕情』によれば、中也が立命館中学に通っていた京都から、東京へ出てきて初めて居を構えたのが「戸塚源兵衛」だそうだ。昔もどこかで読んだことがあるのかもしれないが、忘れていた。
 京から一緒に連れてきたのは、長谷川泰子。江藤淳の『小林秀雄』など、どちらかと言えば、小林秀雄の評伝で目にしていた名だ。
 福島さんの書では、いわば彼女を取られた中也側から、小林との三角関係が見えてきて、おもしろい。
 泰子の『ゆきてかへらぬ』によれば、中也と泰子は、早稲田鶴巻町の旅館に投宿したあと、「戸塚町源兵衛195番地 林方」に下宿するようになる。
 源兵衛といえば、私などには早稲田通りに面した呑み屋「源兵衛」が思い浮かぶが、じつは地名から店の名が取られたのだろう。

○「戸塚源兵衛」を探して

 さて、福島さんは中也と泰子が東京で初めて部屋を借りた「戸塚源兵衛」の地を探しに出かける。
 高田馬場駅で山手線を降り、早稲田通りを歩く。「ユタ」の前を通る。福島さんもユタにはずいぶん入ったようだ。
 その「ユタ」は、常磐新平さんの小説に登場している。数年前、雑誌の仕事で常磐新平さんに付いて早稲田通りを歩いたとき、なんとそのユタがなくなっていた。がらんと空になった店の中を覗きこんだあと、常磐さんはじっと立ち尽くしていられた。

 『中原中也 帝都慕情』では、ユタの前を過ぎて福島さんは、明治通りとの交差点を超える。その先左側三つ目の筋を左に折れる……。
 なにか、記憶をくすぐられる。その道は、学生時代の友人Aが住んでいたマンションと同じ道ではないか。
Totuka1_1
 学生時代、Aはガリ版を切って数十ページの闘争宣言「アッピール」を書きあげ配布した。1969年のことだ。70年代に入ってからは、「労働力商品として自己を立たせていく、それを貫徹する」と決意する。小さな印刷所、編集プロダクションなどで働いたあと、フリー校正者となった。骨身を惜しまず働いた。ある歴史小説の大家からは“最高の校閲者”と賞賛のことばをもらうまでになった。
 70年代、私とはまったく正反対の方向を突き進み、互いに離反していた。それを超え、80年代からはしみじみと酒を酌み交わすようになった。
 そのAは4年前、闘病の末逝った。書籍資料がマンションの2部屋中に積み上げられ、喩えではなく、寝る場所もないほどだった。独身で亡くなった彼の部屋を、共通の友人とともに数ヵ月かけて整理した。
 だから、彼の部屋へは何度も何度も足を運んだ。当然、早稲田通りから入る道はよく覚えている。

Totuka2_1
 福島さんが早稲田通りから折れて歩き始めたのは、どうも親友が住んでいたマンションへの道なのだ。福島さんは坂道を折り三叉路のようなところへ出て立ち止まる。ちょうどその脇あたりに立つのが、Aが住んでいたマンション。
 福島さんは、そこで佇み、明治時代の古地図を広げる。
 三叉路には気づかないような小さな露地が引かれていて、その道から少し入ったところに、福島さんは中也、泰子の下宿先をようやく見つけだしている。

○毎日歩いていた坂道

 『中原中也 帝都慕情』を読んだあとの先日、資料探しもあり、早稲田の古書店へ。A、そして中也らが住んでいたあたりを歩く。「戸塚町源兵衛195番地 林方」と推測される場所は、Aのマンションからすぐ近くであることがわかった。
 そして、「戸塚町源兵衛195番地 林方」跡地は、福島さんが『中原中也 帝都慕情』で記した風景からさらに変わり、家の建て替えなどが進んでいた。この書は1999年から2004年にかけて月刊「短歌」に連載されていたものをまとめたものなので、ここ数年でさらに街の姿が変貌を遂げているということだ。

 Aは小林秀雄の文芸評論を読みこんでいた。そして江藤淳の『小林秀雄』も読んでいたから、中也、泰子との三角関係について、学生時代語りあった記憶がある。
 その中也、泰子が東京で初めて居を構えた地と数十メートルしか離れていないところに、Aは住んでいたことになる。Aに伝えてあげたい。いや、もしかするとそんなことは知っていたのかもしれない、最高の校閲者とも評される男だったから。

 今回高田馬場から早稲田通りを歩き、今さらながら気づいたことがある。それは早稲田通りが、しだいに緩やかな坂を上がり、明治通りを超えたあたりでピークを迎え、また下っていく。その丘の頂上あたりを折れて下ると、Aが、そして中也と泰子が住んでいた「戸塚源兵衛195」あたりになる。こんなに早稲田通りが起伏に富んでいることは、意識の中になかった。
 中原中也と長谷川泰子、そしてAが毎日歩いた坂を眺め直しながら、そんなことを考えていた。

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ