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2007年3月 3日 (土)

亀海昌次さんのこと

○亀海さんのブックデザインが好きだった

 ある企画でいろいろな人物の名を挙げていた。ふと、亀海(かめがい)昌次さんの名が過ぎり、最近の動向をネットで調べようと、名前を入力し検索をかけたら、死亡を知らせるブログやニュース記事が表示された。亡くなったのは1月29日のことだという。

 アートディレクター、亀海昌次さん。

 驚いた。1ヵ月も知らずに過ごしていて、迂闊でもあった。66歳。まだ若かった。
 しばらく言葉を失う。
 以前仕事でたいへん世話になったので、以降も年賀状のやりとりはさせていただいていた。
 亀海さんには、アートディレクション、ブックデザインとはどんなものなのか、制作と作業を通じて教えていただいた。

Kazewosagasite_2   亀海さんのブックデザインが大好きだった。森瑤子さんの書籍をたくさん手がけていたのは知られているが、たしか藤原新也さんの『東京漂流』とか、さまざまなベストセラー本や雑誌のADに携わってきた。
 タイポグラフィの魅力を大胆にあしらったデザインは書店の店頭でみれば、本を開いてクレジットをわざわざ調べなくても、すぐに彼の作品だとわかった(写真は森瑤子『風を探して』(中央公論社刊1990年)。
 写植を詰めうちして書体の個々の形を活かしたデザイン、そして明るくてしかも品のよい色使いが魅力だった。

○窓の向こうに東京タワー

 はじめてお会いしたのは、1970年代半ばだった。ある出版社にいて、私は美術全集をひとりで担当するとになり、そこでケースやカバー、表紙の装幀を亀海さんにお願いすることにした。
 すでにそのころ亀海さんは六本木のマンションの一室にオフィスを構えていた。
 地下鉄六本木駅から六本木交差点の地上に出て、俳優座の前を抜け、閑静な住宅街に入るあたりに、そのマンションはあった。
 こちらはまだ駆け出しに毛が生えた程度のころだった。マンションの玄関で部屋のナンバーを押してから施錠が解かれ、中に入ることができた。当時としてはまだあまりないシステムだった。

 部屋に入ると、アシスタントの男性がいつも応対してくれた。
 亀海さんはぴりっとしたオーラを発していた。駆け出しの私にはそう感じられ、こちらはいつも緊張していた。入室しても、声もかけられずしばらくそのまま待たされたこともある。まあ、デザインワークをしていれば当然なのだが。
 作業机の上には余分なものはいっさい置かない。前の壁には写植がときに貼ってある程度だったろうか。
 窓の向こうには、東京タワーが切り取られていた。
 ドスの利いた低音で、会話のやりとりはなかなかぶっきらぼうに感じられた。必要なこと以外、ほとんど口にしなかった。いつも版下のほうを向いていたが、ときにこちらへ向ける目はぎらりっと鋭く光った。
 進行確認やアポのために電話を入れたときでも とりつくしまがないように感じられることも少なくなかった。

○文字を地紋としてあしらう

 15巻ほどの全集なので、毎回原稿を届けに行き、版下ができあがれば、大きな版下を引き取りに行く。
 思い起こせば、その全集の仕事だけでも、亀海さんのオフィスに30回は出かけたことになる。電子メールなんてなくて、原稿や版下をメールで送るなんてできない時代だったのだから、必ず足を運んだ。
 回を重ねるごとに、亀海さんのスタイルや呼吸もわかり、ときにはぎょろっと睨む鋭い目の脇を緩め、こぼれる笑みに接することもできるようになった。

 全集ケースのフォーマットをつくっていたときのこと。
 ゴナ系の書体で全集名や各巻のタイトルはしっかり配置されていたが、こちらが用意したリード文を、亀海さんは明朝系を極めて小さくして片隅に置いた。写植の7級か8級くらいだったろうか。ポイントでいえば、5pか6pほど(そういえば、そのころ明朝では、オールドスタイルを好んで使っていた)。
 ほとんど文字が読めないサイズだったから、あまりの小ささに、えっと思った。社に戻ると案の定、営業から「なんとかならないのか」とクレームがついた。
 意を決してそのことを亀海さんに伝えると、しばらく黙っていたが、「読む人は読むし、読めなくってもいいんじゃないの」とひとことあった。
 リード文をも地紋のようにあしらったのだ。リードがうるさい、と内心思っていたのかもしれない。そのひとことでピリオドが打たれた。
 そういう信念がなければ、アートディレクションは務まらない。

○緊張と愉楽を教えてくれたデザイナー

 その後、90年代はじめころだったろうか、パソコン誌の表紙をしばらくお願いしたことがあった。
 さすがにミリ単位世界の仕事だから、そのころはリーディンググラスを首から下げて、使い始めいた。でも、若いころと変わらず、Tシャツにジーンズというじつにシンプルなスタイルを貫いていた。
 テニスをやっているんだ、と日焼けした顔の相好を崩してニヤリとすることもあった。

 オフィスで仕事の打ち合わせをする以外、外で会うことはなかったが、一度、外で酒を呑んだことがある。こちらから声をかけることはなかったが、亀海さんから珍しく声をかけていただいた。
 六本木から乃木坂に少し足を伸ばしたあたりの鮨屋に入った。どんな話をしたのか、記憶がぼんやりしているのだが、楽しいひとときだった。店の奥のほうで、今陽子(ピンキー)さんが談笑しながら酒を飲んでいたのをなぜか今でも憶えている。

 亀海さんは、雑誌もよく手がけた。「アサヒグラフ」とか、光文社の女性誌をたくさん。そして写真週刊誌、さらに「スパ」も。JAFの会員誌もずいぶん長いこと手がけていた。
 グラフィックデザインでは田中一光さんら、ファッション界なら三宅一生、高田賢三の各氏ら、同様にブックデザインの世界では、亀海さん他数人の優れたデザイナーが、それぞれ20世紀後半いたけれど、作品に向きあうとこちらの背筋を伸ばしてくれるようなデザイナーが最近あまり見あたらなくなってしまった。

 写植ができる前のタイポグラフィの時代からデザインを手がけ、その財産が写植版下制作にも反映されていたから、あの時代のブックデザイン界のクオリティはとても高かった。それが90年代になりDTP組版が出てきたからか、ブックデザイン世界の質はずいぶん落ちてきたように感じられる。
 亀海さんは、ブックデザインが元気な時代を切りひらき、また読者が書籍・雑誌を手に取り装幀と愉しんだり緊張をもって対したりする喜びを教えてくれたデザイナーだった。

 いつかもう一度デザインをお願いできれば、と思っていただけに、残念が深まる。

 亀海さん、お世話になりました。ありがとうございます。
 合掌。

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コメント

vertdeauさん

お読みいただき、コメントをありがとうございます。
たしか森瑤子さんのブックデザインのほとんどは亀海昌次さんが手がけていたかと思います。あの頃は、書籍デザインがとても輝いていた時代で、その先頭に亀海さんが立っていたなと、しみじみ振り返っています。

森瑤子さんについて調べているうちに、良きパートナーであった亀海さんのことを知るに至り、このページにきました。
森瑤子さんを知る方のページにも行きつき
森さんと亀海さんはとても素敵で、明るくて
哲学的だったと聞きました。
なんだか、森さんのそばに亀海さんがいて
良かったななんて考えていました。
突然のコメントでごめんなさい。

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