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2007年3月21日 (水)

澁澤龍彦『快楽図書館』と吉行淳之介論

 たまたま手にした澁澤龍彦快楽図書館』。20年前に亡くなった澁澤さんの文章を編みなおした新刊だ(学研)。「集成」や「全集」に収録されていなかったものの中から選ばれたようだ。
Sibusawa  大江健三郎『日常生活の冒険』、石原慎太郎『行為と死』、磯田光一『殉教の美学』や、ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』、同じく『有罪者』など、懐かしい書名もずいぶん並んでいる。
 バタイユについての文も1960年代に書かれたもので、澁澤さんがエロティシズムの分野で先駆的な役割を担ってきたことを改めて思う。

 終わりのほうに「『砂の上の植物群』に描かれた性について――吉行淳之介論」が収められている。1968年に「三田文学」に掲載されたものだ。
 『砂の上の植物群』を澁澤さんはこれまでの夾雑物が取り払われて「人間存在の闇の部分へより深く作者が降りて行ったという感じがするのである」と評価している。
 そこから澁澤さんは、性的頽廃や倒錯の世界を論じ始める。この作品に、「性的頽廃」やタブーとの対峙をみている。たしかにそういう世界が広がっているし、私もこの作品は名作だと思う。
 澁澤さんはこう書いている。「生殖を目的としない遊戯的な性(エロティシズム)は、私が何度も述べているように、必然的に倒錯に赴く傾向をもっている」と。
 でも私に言わせれば、人は大なり小なり性的存在であり、つまり誰もがエロティシズムを抱えこんでいるのである。
 だから次のように書かれていると、エロティシズムを先駆的に追求してきた澁澤さんらしくない。

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 道徳的判断を混じえずに(道徳とは時代や環境によって変化するものだ)、倒錯あるいは性的偏向という言葉を正しく客観的に定義するならば、それは次のようになるであろう。すなわち、「大多数の人間の性行為とは違ったやり方で、性の満足を得ようとするエロティックな傾向」である。
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 うーん、時代の制約もあるのだろうな、とは思いつつ、少し徹底性を欠いた表現のように感じられる。
 「大多数」ではない「少数」が、というより、「誰もが」程度の差はあれ、生殖行為を逸脱する「余剰」(「生殖を目的としない遊戯的な性」)を抱えこんでいる。だから「誰もが」大なり小なり、性的偏向をもち、倒錯性をもつ、とでもいうほうが当っていよう。
 そして、「誰もが」という視点を欠いたり、あるいは無視したり否定しようとすれば、そこで構築された観念は、ときとしてとんでもない転倒を生みだすことになる。

 さて『砂の上の植物群』に戻れば、作品の魅力は、性的偏向や倒錯の世界を究めたところにもあるけれど、より深くはもっと別のところにある。
 澁澤さんが引用し、かつ礼儀としてだけ受けとめた吉行さん自身のコメントのほうがあたっているようにみえる。一度書かれたものは当の作者から離れているのだし、作者のコメントに従う必要はまったくないのだが、それでも吉行さん自身の次のことばのほうがこの作品の核心に触れている。
 「この作品はあながち性を書いたというだけのものではない。……もしもこの作品で心を動かす読者があるとすれば、それは作品全体に流れる孤独感のためと思う」

 私が『砂の上の植物群』を読んで感じたのは、吉行さんの倫理のようなものだった。それは『暗室』にも通じている。
 性の世界にのみ自らを限定して関係性を形作ろうとするものの、結局他者との生々しい関係と向きあわざるをえず、輝いているばかりとは決していえないけれどその世界を引き受けていこうとする……そんな姿勢がじわりとせりあがってくるところにこそ、むしろ『砂の上の植物群』や『暗室』の魅力が潜んでいるのだと思う。

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