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2006年7月29日 (土)

『二十一世紀の資本主義論』でたじろぐ

○「人間は一度として中心になかった」

 少し前に触れた岩井克人さんの『二一世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)を読み進める。
Iwaisihonron_1   すると、別の論文で岩井さんはこうも書いている。「『人間』は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった」と(「資本主義と『人間』)。 これはどういうことだろうか。

 産業資本主義勃興期、アダム・スミスは富の創造者を、遠隔地との価格差異を媒介にして利潤をかせぐ商業資本主義活動にではなく、産業資本主義のもとで汗を流して働く人間に求めた。岩井さんによれば、以降経済学は「人間」を中心に展開されることになる。
 リカードやマルクスは、商品の交換価値がその生産に必要な労働量によって規定されるとする労働価値説を唱えた。労働者が生産する剰余価値こそ、産業資本主義の利潤の源泉と。「労働する主体としての人間」にリカードやマルクスは利潤の源泉を求めた。

 しかし今日のポスト産業資本主義のもとでは、商品の価値はそれに投下された労働の量によって決められるわけではない。差異こそが商品の価値となる。差異が利潤を生みだす。「労働する主体としての人間は、商品の価値の創始者としても、一国の富の創始者としても、もはやその場所をもっていない」
 かつて産業資本主義の時代には、労働生産性と実質賃金率の二つの異なる価値体系に差異があり、それが「人間」という労働する主体の存在を措定させ、マルクスを錯覚に陥らせたのだと、岩井さんはいう。
 マルクスは商品の物神化を暴いたつもりだけれども、じつはマルクスやリカードが措定した「主体としての『人間』とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならない」と。
 ここで、岩井さんは、主体としての「人間」はまさに物神化、人神化の産物だとしたうえで、つぎのようにしめくくる。
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「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。
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 岩井さんは、商業資本主義であれ、産業資本主義であれ、そしてポスト産業資本主義であれ、差異こそが利潤を生み出すのであって、利潤の源泉は差異であり、人間の労働が利潤を生み出すのではないといいたいのだろう。
 利潤、そしてその源泉である差異を生み出すために、人間は存在していた。だから一度として、資本主義の歴史のなかで、その中心にいたことはない、と。

○中心にないけれど「自由」?

 ところで、すでにみたように、岩井さんは一方では資本主義を抑圧することは自由を抑圧することだと断言する。資本主義のもとでこそ自由は保障されているのだとしている。一度として人間が中心にあったことのない資本主義こそが自由を保障するとしている、ということになる。
 つまらない揚げ足取りをしたいのではないが、この矛盾をどう受け止めればよいのだろうか。
 結局、中心になく強いられている、あるいは踊らされている、あるいは利潤創出のために仕えている人間の活動であっても、岩井さんはそれを「自由」と呼びたいのだろう。わたしなら恣意性といいかえるのだが。

 彼はマルクスらの労働価値説を批判する。資本主義における利潤の源泉は、労働にはないと。マルクスらは主体としての人間を措定して、人神化してしまったととらえる。
 ここでわたしがあえていっておきたいのは、利潤ではなく生産物をつくり出すのは人間(経営者、労働者)だということ。利潤は差異がつくり出すかもしれないが、生産物は人間がつくりだす。じつにあたりまえにすぎることだが。
 もちろん近代的な主体としての人間を措定することは避けたい。主体としての人間なるものに幻想をもつことは避けたい。それは二〇世紀にいやというほど血を流して、人間が学んできたことだ。
 しかし他方、資本の自己増殖運動がそうした惨劇を背後から否応なく突き動かし演出してきたこともまた間違いない。二〇世紀の百年間を経て多数の血を流しながらも、ひとはそれを克服できなかった。

 一度も中心に位置したことのない資本主義のもとでこそ人間には「自由」があるという。岩井さんはこれを逆説と意識しているのかどうか。その心の底には、論の矛盾を抱えてまでそういいきりたい断念が流れているのだろうか、とあえて深読みしようかとも思ったのだが、それは的外れなことだろう。

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