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2006年6月24日 (土)

今年初の「床」

P1010012_1  鴨川の床へ。今年初めて。
 梅雨どきだが、幸い雨に降られる心配はなさそう。
 押小路通を東へ進み木屋町通にぶつかった路地の奥の店。もとは旅の宿だったところで、大部屋、小部屋の脇をうねり抜けて床へ。

 床の席は通常、テーブルを挟んで向かいあいように設けられているが、一番川縁の席は2名用の席が対面せずに、川に向けて並んでいる。これはとてもいい。一緒に来た京キースさんと対面して呑むよりは、鴨川と東山を眺めながら会話をするほうがずっとよい。川と東山と夕空を眺めながら、キース氏の京都論に耳傾ける。

P1010011  空は少しずつ暮れていく。二条大橋も見えるあたりなので、土手は狭く草が生え、四条周辺のようにカップルは座っていない。対岸の景色も四条、三条あたりの繁華街の景観とは異なり落ち着いている。
 川にはカモ、シラサギが見える。しだいに空が色を失いかけると、コウモリが不安定な舞いをみせる。

 床の席というと、空間サービスに寄りかかって味に手抜きをみせるところもあるが、今日訪ねた露瑚さんは、そんなことはない。鹿ヶ谷山荘やセサミなどを経営するオーナーのお店。
P1010017  女将さんの着物の青がなんともいえない。青ってなかなか難しいが、とてもいいセンス。洛中の商家のことばを語る女将の言葉遣いは、花街のことばとはまた違い、さっぱりとしながらやわらか。
 至福のとき。

 腹ごしらえしたところで、祇園へ。お茶屋さんの取材の依頼と下打ち合わせ。

2006年6月18日 (日)

鴨川と賀茂川

P1010046_1 拙著『ほっこり京都時間』にも書いたが、京のスローな美学を形づくる大きな要素が水。「水はものと生物を再生させる」と語ってくださったのは、清水寺貫首の森清範さん。 中でも鴨川の存在はきわめて大きい。
 鴨川と賀茂川、二つの書き方があるが、北から流れる「賀茂川」と高野川が合流すると「鴨川」となる。
 部屋から鞍馬口通を東に進めばすぐに賀茂川に出る。鴨川は、川幅が広くなるし、両側を繁華街に挟まれるし、河原にも多くの人が出る。夏の夜ともなれば、3メートルから5メートル間隔でカップルが腰を下ろす。とにかく賑やかだ。
 そんな鴨川に比べ、賀茂川はのどかだ。鴨川より川幅は狭く、緑も豊富だ。
P1010013 河原の広いグラウンドもありそこでは市民が遊戯に興じたりするが、あとは土手沿いをジョギングや散歩をする人たちが通りすぎるくらいで、静かに憩えるエリアだ。
 ベンチに腰かけ、ぼんやり川に目を遣り、鳥の動きを追い、その向こうの東山の稜線を辿り、川のせせらぎ、鳥の声に耳傾け、風を肌に感じる……。

 私は賀茂川でのんびりすることが多いのだが、先日珍しく高野川を横切ろうとして初めて渡ったのが、自動車は通れない小さな橋。蓼倉橋(たでくらばし)というが、名の由来はわからない。
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2006年6月16日 (金)

アートシアターギルド 京都で

Atg3  ATG Film Exhibition。京都造形芸術大学が主催し、同大学の芸術劇場でアートシアターギルドの作品が4本上映される。
 1960年代から70年代にかけて自立的な映画創作活動を支えたATG(アートシアターギルド)。最終日11日(日)の「天使の恍惚」を観に出かける。
 ちなみに8日は寺山修司の「書を捨てよ町に出よう」、9日は大島渚の「新宿泥棒日記」、10日は松本俊夫の「薔薇の葬列」だ。

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 京都造形芸術大学へは初めてだ。
 自転車に乗り、鞍馬口通を東へ。下鴨神社を抜けて、東大路通と叡山電鉄踏み切りを超えると、突き当たりに見える建物が京都造形芸術大学。
 ホールには当然学生さんが多いが、60前後のおっさんら(わたしもだ)の姿もちらほら。なんといってもATGのイベントだから、そういうことになる。

 11日は若松孝ニの「天使の恍惚」。
 若松孝ニさんといえば、1960年代後半から70年代にかけて、独特のピンク映画で知られた作家(映画監督)だったが、それなりに人気があり、大学構内でもよく上映されていた。
「壁の中の秘めごと」「犯された白衣」あたりは観ていたが、「天使の恍惚」はまだだった。制作は1972年。ちょうど連合赤軍事件が起こる直前のことだ。

 紹介パンフレットには次のようにある。
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若松孝二監督が東京総攻撃を計画する革命軍・四季協会のメンバーが都市ゲリラ戦を展開する姿を描く。公開直前に劇場の近くにある交番が爆破されるなど「テロ」を助長する作品だとスキャンダルを巻き起こした話題作
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 1970年前後の性と武装闘争的政治世界を描いた、ということになるのだろうが、90分の上映が終わり、うーん、とうならざるをえなかった。
 若松監督の世界にはある種の幼児性があった。もちろん幼児性って誰でも抱えているのだし、それを武器にすることもあっていいのだが、この人の作品では、性とのからみでそれが顕著。といったことを今回の映画を見て、改めて思う。

 性愛と革命(武装闘争)が曖昧につなげられている。そのぶん性愛描写は貧しく、呼応するように、革命(武装闘争)も貧しい。
 性のシーンに必然は感じられない。
 革命の中味が問われることもない。なにしろ閉じられた党の軍事部隊内のできごとだ。閉じられた世界の観念的ことばが空疎に飛び交うだけだ。

 性愛の世界の貧しさ。俳優の演技も、そして性愛の行為も、なんだかとても画一的で貧弱だ。全裸で交わる男女のシーンは何回出てきたろう。もたれあってマスタベーションをするシーンもある。必然なんて感じられない。
 性愛が貧しいだけでなく、裸体もメリハリがない。

 もちろん時代の制約もあり、全裸での交わりを当時描くことの制約もあったろう。でもあえてそういう方途を選んだうえでの話だから、もっと豊かな性愛があってもいい。
 あるいは権力に追い詰められ、情況から孤立している貧しい性愛を描きたかったのだろうか。でも、貧しさが哀しみとして対象化され浮き彫りにされるわけでもない。
 性愛と反権力闘争の相互規定的な貧困。

 性を描くということで、話題を呼び、興行数字を上げたいのかもしれない。それ自体に異を唱えるつもりはまったく。いや、それはどうでもよい。作品が作品として輝いていれば。ようするに映画作品としてさみしいものといわざるをえない。

 アートシアターギルドは、1960年代ずいぶん優れた作品をプロデュースし、大きなムーブメントになり私も影響を受けた。
 そして、新宿アートシアターで上映された海外映画には決定的な影響も受けた。ゴダールはじめヌーベルヴァーグなどの上映。
 そのプロデューサーであった葛井さんがこの作品もプロデュースを手がけたという。またまた、うーむ。
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 というようなことを、帰りに賀茂川縁のベンチに腰かけ、風に吹かれ、川のせせらぎに耳傾け、散歩する人たちを眺めながら、思う。

 ここには観念をめぐる問題がある。テーマがちょっと重くなるので、続きはこちらへ
(toyodasha>知の岸辺)

2006年6月10日 (土)

蛍火の茶会

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 自転車で百万遍の古書店へ出かける。久しぶりだ。
 百万遍からカフェの進々堂までの間には、現在3軒しか古書店がない。以前はもっとあったような気がするのだが。
 活気が感じられない。京大の学生さんたちは、みなネットに流れているのだろうか。
 東京の神保町や早稲田のほうが、まだまだずっと勢いがある。とくに神保町は。

 賀茂川縁のベンチで、文庫になった絲山秋子さんの「イッツ・オンリー・トーク」を開く。このところ、「労働」について考えているので、文学の世界からはすっかり遠のいていた。
 ジョギングのランナーが増え出したところで、ベンチから立つ。夕暮れになるとランナーが多くなるのだ。

 下鴨神社のお茶会の券をいただいていた。「蛍火の茶会」。
 無粋者なので気が引けたが、出向いてみる。
 重要文化財の橋殿に上がり、抹茶をいただく。茶菓子は老松さんのもの。なぜか民主党前党首の前原さんが目の前に参列。
 そのあとは、尾張屋さんの蕎麦をいただき、二〇弦琴の「グリーンスリーブス」に耳傾ける。
 秋の名月管弦祭といい、下鴨神社は夕暮れもなかなかだ。
P1010018

 早めに引き揚げてきたのだが、夜9時ごろになると、蛍の灯を楽しめるそう。
 昔は蛍の灯を堪能できたが、昭和20年代から川が枯渇、農薬もあり、蛍が姿を消したという。町の人々が糺の森を保全しようと運動し、蛍も飛び交う光景を見ることができるようになった。
 というわけで、置かれた箱にカンパ。

2006年6月 3日 (土)

『昭和ジャズ喫茶伝説』

Jazzkcafe

 前回カフェの話題だったので、引き続き。
 ちらっと前回名前を出した平岡正明さん。彼が昨年出版した『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)。吉本隆明さんあたりには、太田竜、竹中労の各氏とともに、トリオで酷評された平岡正明さんの本だ。彼の世界窮民革命論だかなんだか、そういうのには到底ついていけなかったけれど、ジャズ喫茶について書かれた今回の本は、なかなか読ませてくれる。
 昭和を駆け抜けた、都内及び近郊のジャズ喫茶の名がずらりと並んでいる。その名に絡めて、荒れた時代の交友とエピソードが平岡節で語られている。

 新宿にはたくさんのジャズの店が散らばっていた。「」「DIG」「木馬」「ぴざーる」「ニュー・ポニー」「タロー」などたくさんの名前が挙がっている。早稲田では「もず」の名が。戸塚二丁目にあったが、わたしは一、二度しか入ったことはない。
 高田馬場は「イントロ」と「マイルストーン」。ともによく足を運んだ店が登場する。 神保町の「」には古書店帰りによく寄った。

○「スイング」「イトウ」

 そして水道橋駅脇の路地にあった「スイング」。デキシージャズの店。平岡さんは飯田橋駅脇と書いているが、たしか水道橋だったはずだ。「スイング」を教えてくれたのは、オールドジャズが好きだった学生時代の友人だが、その彼は少し前、亡くなった。フリーで徹夜仕事をしていて無理をしすぎたのだろうか、心筋梗塞だった。残念なことだ。「ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン」のレコードを教えてくれたのも彼だった。
 四谷といえば、いまも続く(場所は変わったが)「いーぐる」。ついでに、そのころあったサンバの店「サ・シ・ペレレ」の名も登場している。

 平岡さんは都内の店はほとんどと踏破しているようだ。これはなかなかできることではない。
 下町も登場する。日暮里の「シャルマン」。日暮里駅から進み、谷中銀座への石段を下りきるあたりにあった。そして上野の「イトウ」。池之端の仲町通り、中学時代の友人の酒屋があったすぐ近く。
 このあたりになると、新宿や渋谷あたりを徘徊している、いわゆるジャズマニア連中は出向いたことがないに違いない。わたしはもともと上野池之端に棲息していたので、ときどき「イトウ」に入った。蛍光灯の灯りが暗めの店で、晩年は歳を重ねた奥さんがレジの前に座っていた。私語が禁止されていたのだったか、話し声はまず聞こえなかった。
 ジャズの店ではないが、池袋では「ネスパ」まで登場する。待ち合わせによく使った店だ。

○「スカラ座」「クラシック」

 ヘェーっとびっくりしたり、教えられる話も少なくない。
 篠田正浩監督の『乾いた花』。若き篠田さんの傑作だ。原作は石原慎太郎、音楽は武満徹の各氏。池部良さん扮する博徒が、山茶花究扮する敵組長を刺殺するのは名シーンだった。その舞台に使われたのは、新宿のクラシック喫茶「スカラ座」だと、平岡さんはいう。ヴェルディの曲が流れるなか、店の階段を上がって池部さんが身を寄せて山茶花さんの腹を刺すシーン、そのスローモーション映像は、じつにみごとだった。

「越後妻有大地の芸術祭」を総合コーディネートするアートディテクター・北川フラムさんの名も、突然登場する。第二次テック闘争で、平岡さんが鉄の鎖で体を結んで柱に結びつけて抵抗したとき、鎖を結んだ相手が北川さんだったというのだ。まったくもって初耳だ。

 中野にあるクラシック喫茶「クラシック」も出てくる。「クラシック」にはつまらない想い出がある。
 学生時代、友人たちと出かけたときのこと。当時、すでに店の床は傾き、歩くたびに床が軋んでいた。かなり破れかけていたソファに座り、文学談義をしていると、いかにもフーテン風のお兄さんがやってきて、隣に腰をおろした。前に流れてくる長髪を右手で耳の後ろに回しながら、左手を上げて「カズミはねー」と語り始めた。当時“カズミ”といえば、それは言うまでもなく作家高橋和巳さんを指す。上っ面の文学論を語り始めたが、どうやら小銭を出してくれという要求だった。
 文学、しかも倫理派の“カズミ”を語って小銭をかせぐ、そんなことをする男も存在する、文学が力を持っていた(?)時代ではあった。

 そう、本書のカバーはジャズ喫茶のマッチ箱で飾られているのだが、本文中には出てこない京都の「シアンクレール」「ダウンビート」「ブルーノート」のマッチ箱が並んでいる。今も残る店は「ブルーノート」のみ。

 というわけで、読んで、見て、楽しいジャズ喫茶物語。

2006年6月 1日 (木)

「みゅーず」の店仕舞い そして

Myusu  

 迂闊だった。
 四条木屋町上ル、高瀬川のほとりにあったクラシックのカフェ「みゅーず」が閉店になったという。5月の連休明けのことらしい。2週間以上も経って、知りあいに教えてもらった。もちろん『ほっこり京都時間』でも“音に浸るカフェ”として紹介をしていた店だった。(写真は桜散る高瀬川の向こうに見えた「みゅーず」)
 一番はじめに行ったのは、高校の修学旅行のときだったろうか。
 高瀬川のせせらぎと響きあうように流れる音に耳傾けられるクラシックカフェ。京に旅するごとに訪ねるファンも少なくなかったにちがいない。わたしにとっては、モーツァルトのオーボエ協奏曲あたりがよく似合う空間だった。

 店のご主人の弁では、河原町通にあった丸善(梶井基次郎の「檸檬」にも登場する書店)が撤退するなど環境の激減で夕方から夜にかけての客が減ってきたらしい(京都新聞データ)。周囲の木屋町通あたりの雰囲気もずいぶん変わったよう。商売がきつくなったというのが理由ではなく、そろそろ潮時との判断らしいが、環境変化のほか、スタバやドトールのような店舗が増えているのも影響しているのかもしれない。
 京でクラシックの店というと、あとは出町柳にある柳月堂くらいだろうか。音楽を聴くということでは柳月堂のほうが本格的だが、ロケーションでは、とても「みゅーず」には及ばない。
 建物は残されたまま飲食店になるということらしい。寂しくはあるが、これまでの「みゅーず」に感謝。

★「あらえびす」

 クラシック喫茶といえば、東京生まれ東京育ちのわたしにとっては、池袋の「コンサートホール」と早稲田の「あらえびす」ということになる。
 かつて犯罪者同盟を結成していた平岡正明さんの『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)でも、ジャズの店ではないのに、「あらえびす」が挙げられていた。
 平岡さんの文で想い出したが、そうだ、「あらえびす」のウェイトレスさんは必ず黒いセ-タと黒のタイトスカート姿だった。なぜかいつも生足。彼女たちが狭い通路を歩くたびに、脇のテーブルに腰を下ろしている私は、かすかに残される彼女(たち)の風の匂いを感じていた。まだ十代、抱え込んだナイフのような感性に悩まされていろころだった。
 平岡正明さんの時代には、モジリアニが描く首の長い女の子がいたらしく、“モジ”と呼ばれていたらしい。
 わたしが通っていたころは、小柄だけど、目がくりっとしてほっペにホクロあるウエイトレスさんがいた。好意を抱いたけれど、気持ちを示すなんてことはまったくできなかった。

 あのころ、グレン・グールドはまだマイナーで、ほとんどレコードがかけられることはなかった。ピアノやチェンバロなら、リヒテル、ゼルキン、ケンプ、ギーゼキング、クララ・ハスキルやヴァルヒャあたりがもてはやされていた。
 その「あらえびす」は八〇年代後半だろうか、静かに店を閉じた。

 「あらえびす」を経営していた女性オーナーが別にやっていた喫茶店が「ユタ」だったとを、平岡さんの本で知る。「ユタ」といえば、常磐新平さんがかつて通い続け、またその小説にも登場する喫茶店だった。
 こちらは2年前、常磐さんに早稲田通の想い出を書いていただく企画に同行し歩いたら、ちょうど閉店になった直後だった。常磐さんは、店内になにもなくなった店の前に、呆然と立ちすくんでいた。

★「コンサートホール」

 一方「コンサートホール」は「あらえびす」より前、インベーダーゲームの襲来で壮絶な最期を遂げた。
 池袋の繁華街、いまでは味も素っ気もないサンシャイン通りに変わる前、そのあたりに店を構えていたから、「あらえびす」とは客層が違い、水商売の方々もたくさん来ていた。奥浩平「青春の墓標」にもその名が登場している。
 学生時代、わたしはよく入り浸った。時間があれば出かけていた。社会に出てからも同人誌「原石」の会合などでもよく使った。
 姿を消したのは、忙しくてあまり店に寄らなくなった1980年代前半のことだ。どこの喫茶店にもインベーダーゲームが置かれるようになり始めていたころ。ビデオゲーム販売会社の売上回収車がゲームのコインを詰め込んだ袋の重みで、クルマのサスペンションが壊れてしまったというエピソードがまことしやかに語られた時代。
「コンサートホール」は、そのインベーダーの襲来を阻止できず、ついに華々しい討死を遂げ、突然ゲーム喫茶に変わってしまったのだった。

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