« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月27日 (土)

「雨の日におすすめの京都」

P1010043

 日経新聞土曜版「NIKKEIプラス1」の一面企画「雨の日におすすめの京都」で、アンケート取材の依頼を受けた。その結果が5月27日付け同紙に掲載されている。
 選者は、タクシードライバー、観光協会ガイド、カメラマン、そして私のような著述業など13名。
 一位は詩仙堂、二位は高桐院、三位は石塀小路で、十位まで続いている。
 私が一位に挙げたのは高桐院(大徳寺塔頭)だったが、他に挙げた蓮華寺正伝寺廬山寺などは十位までに入っていない。それらは静かでマイナーな庭園ゆえ、かえってランクインされないほうがよかったのかもしれない。(写真は蓮華寺)

2006年5月25日 (木)

夜の上賀茂・北山通

P1010001_1  

 京に住む、学生時代の友人と呑む。
 京には学生時代の友人が二人いる。この日会ったのは、京の伝統産業を継ぐ三代目になっている友人だ。彼と酒を呑むのは社会人になってから2度目だろうか。
 上賀茂の閑静な住宅街にクルマで連れて行かれる。店の灯りはどこにも見当たらない。
 少し歩くと一軒家に小さく店の灯り。こじんまりした割烹だ。先斗町あたりで板さんをしてきたらしいご主人と奥さんのお店に案内される。
 気張らないけれど、静かでほっとする空間。客はわれわれだけだ。
 ビールで喉を潤すと、豆腐の突き出し。これが旨い。ちょうどいい間をもって、ちょうどいい流れで器が運ばれる。梅タレをかけた茶碗蒸しも絶品。私はグルメを名乗れるものではないが、過度な細工をせず、ごく自然にいい食を供してくれる。うれしい。

 この友人は、拙著『ほっこり京都時間』で、ちらっと登場してもらっている。と書いたが、どうも記憶が定かでない。最後にカットしたかもしれない。いま手元に本がないのでわからない。

 学生時代、彼も含め、たまたま集まった4人で高田馬場の駅近くで遅い昼食をとった。ロシア料理の店だったろうか。
 わたしにしては、ちょっとふんばった店だった。というのも、いつも学生街でスタミナライスといった手軽でボリューム満点のランチしか口にしていない、東京プロレタリア息子にとっては、テーブルにクロスが敷かれる滅多に入らないレストランだったから。
 で、なにをオーダーしたか記憶は薄れているのだが、4人の前にお皿が運ばれてきた。腹をすかせていたわれわれは、がつがつとフォークで食べ物を口に運び一気に食べ終えた……。そのはずだった。
 満腹となり、天井を見遣って、ふうと充足の溜息をついたあと、テーブルの上に目を戻した。
 すると、他の3人が平らげたものとは異なり、いままさに食べ始めたばかりといった皿がひとつあった。その皿の前に座っていたのが、京のこの友人だ。ゆっくりと食を続けていた。
 当時、わたしなどは、食い物の苦労を知らない京都のぼんぼんだなあ、と半ば呆れていたのだが、いま思えば、食をじっくり味わう、根っからのスロースタイルだったのだ。そう思う。だからこそ、苦労しながらも、彼はしっかり伝統産業を技と機械も含めて復元し守り、再生・創造しようとしている。

 そんな昔話も交え、カウンターで酒を呑む。共通の友人の二人の死者のことなども。

 学生時代に、彼の家に泊めてもらったことがある。
 大阪で万博が開かれた年だ。岡本太郎の芸術論にはずいぶん影響を受けたけれど、万博の太陽の塔には首を傾げていた。万博は社会の矛盾を隠蔽するものだ、と決めつけて大阪のどこかの公園で開かれた反博(ハンパク)に参加するのが目的の旅だった。でも、その反博というイベントは、公園にテントを張りめぐらしただけのじつに貧弱なもので、参加しながらも、わびしさを味わったものだ。
 ときはもう、1970年……。三波春夫さんの笑顔と歌が日本中を席巻する。潮はずいぶん引いていた。

 さて、当時彼の家は、西陣の今出川通に面してあった。入り口は狭いけれど、中に入れば、どんどん広くなる、典型的な京町家だった。もちろん坪庭もあった。
 泊まったとき、ご母堂にはたいへんお世話になった。日本の母の典型という感じだった。ふっくらとしていつも笑顔を絶やさない。さくたんの子どもを産み育て、子どもの友人がやってくれば優しくもてなしてくれる、無償性を生きる、そんな女性にみえた。そのご母堂もいまはない。その町家は壊され巨大マンションになってしまっている。残念なことだ。

 店を出ると、雨雲が覆っていた夜空に少し晴れ間が見える。田圃では蛙が大合唱をしている。田の中をサギだろうか、静かに歩いている。北山通にほど近いところでこんなのどかな田圃がある。京野菜が作られているのだ。これが京のよさでもある。
 北山通を抜けて賀茂川のほとりのカフェでコーヒーを呑みながら、さらにあれこれれ話をする。

 京は魔界の地だ。一条戻り橋あたりだけではない。たとえば賀茂川をもう少しあがった志久呂橋あたりでは、夜、小さな着物を着た男の子が橋に現れるのを、少なくない人たちが見かけるのだそうだ。といった話まであれこれ耳傾ける。

 別れてから、雨に濡れた北山通を歩く。夜11時前の北山通、ほとんどの店はすでに閉められている。ライブハウスのMOJOWESTには灯りがついている。たしかロックの店。キャロルメンバーだったジョニー大倉の写真だろうか、飾られている。
 通り沿いになんとラブホテルを発見。というか、しっかり存在をアピールしている。以前はなかったような……。東京でいえば、青山通りに面して建っているようなものだ。北山通の商売、苦戦しているのかな。

Hokkori

2006年5月21日 (日)

団塊は、資源?

 たしかに多く感じる。平日の昼間、京都の街でも、東京の街でも、団塊世代とおぼしき人たちの姿を。2007年は来年だが、「2007年問題」はすでに始まっているのかもしれない。

Takarajima2

 数日前、朝日新聞はじめ3大紙あたりで宝島社が2面の全面広告を出していた。

   団塊は、資源です。

 との見出しで、脇にコピーが続いていた。
 広告を出した宝島社は、この企業広告についてサイトで次のように書いている。

「常に新しい波を起こしてきた団塊の世代は、もしかしたら日本におけるリタイアの概念さえ変えてしまうのではないか。仕事においても遊びにおいても、個人でも家庭でも、高齢になることが必ずしも老いを意味しない世の中、そういう新しい時代に、彼らが一気にジャンプしてくれる予感がするのです」

 たぶん、旧来の定年後のスタイルを踏襲していては、本人も社会ももたないし、また、そうであってはならないのだと思う。とくに働くこと(活動すること)をめぐっては、そうだと思う。
 労働については、「日経マスターズ」5月号の「新しく、働くということ」の中で一文を提起した。むしろ、団塊世代の定年を、これまでの労働、働くことの見直しと組み替えを行う好機ととらえるべきだと思う。

 ただ、広告コピーの最後にあった、

  きっと団塊は死ぬまで退場しない
  あとの人々は半ばあきれながらも楽しそうに
  彼らの背を追いかけていく

 とあるが、そうありたいけれど、「楽しそうに」と、あとの世代が受け止めるかどうか、それはなかなか難しい。「最後までうるさいな、鬱陶しいな」と感じるかもしれない。それは個々の生き方次第だろう。

文藝春秋」6月号でも「10年後の『団塊』」という特集を組んでいた。年金から、熟年離婚、第二の仕事、生き甲斐、老老介護、墓と死に方など、10項目のテーマで見通しと提言をしている。
 年金制度あたりではずいぶん甘めの見通しで書かれている。平均貯蓄と退職金で、生活費と年金の差額を埋めることができるとあるが、これは一部であって、多くの実態はとてもそうとは思えない。

2006年5月18日 (木)

京の祭り

 15日月曜の朝、京都駅の地下鉄ホームへ降りると、並ぶ列がいつもより長い。四条では車内はさらに混む。東京の朝のラッシュ時の勢い。中高年の女性が多い。

 そうだ、葵祭の日だ。京都三大祭りのひとつ。御所から出発して、下鴨神社を経由して上賀茂神社まで進む。地下鉄の乗客は丸太町駅で降りることになる。

 京では、祭の催しは、日で決められている。つまり東京のように第何日曜などと、週末にフレキシブルに移行させたりはしない。集客のために週末に合わせるなどということはない。日で決まっている。

 7月一ヵ月にわたって執り行われる祇園祭も、すべて日で決められている。山鉾巡行は17日と。強気なのだともいえるし、昔からの決めごとを淡々と守っているだけということかもしれない。
P1010004 (写真は休日朝の鞍馬口通)

2006年5月14日 (日)

相国寺

P1010014  今出川通から北へ、同志社大学に隣接する相国寺。臨済宗相国寺派の本山で、金閣、銀閣などを擁する。
 私が京へ仮住いを始めた六年ほど前、境内はあまり手入れされておらず、やや荒れた印象だったが、ここ数年でずいぶんと整備が進んだ。境内の道が整えられ、浴室も見学できるようになった。観光客は少ないし、静か。
 上御霊神社から相国寺、そして御所への道は格好の散策路。
 毎年、春と秋に特別拝観がある。現在は春の特別拝観中。

 柄谷行人『世界共和国』。
 昨年だったか、岩波書店から『定本柄谷行人集』という全5巻ものが出たことに驚いたが、今度は岩波新書が。ふたたびの驚きだ。岩波書店が変わったのか、柄谷さんが変わったのか……。
 この新書については、さまざまに教えられるところもあるし、じっと立ち止まって考え込んでしまうところもある。
 いずれコメントしてみたいが、ひとことだけ。しばらく前から柄谷さんはしきりにカントさんに依拠しているが、カントさんが抱える危うさが本書の立論のきわどさともつながっているように感じられるのだが、どうだろうか。

2006年5月13日 (土)

世代論の危うさ

 鞍馬口通の部屋から見える北山、鞍馬山らの肌が濃淡の新緑で塗られる。そろそろ葵祭のころだ。
024

 ランチに入る店がいくつかある。そのうちのひとつが尾張屋。創業は540年以上前に遡る京都でも一二を争う老舗だ。ちなみに老舗番付では横綱を張っている(拙著『ほっこり京都時間』参照)。
 ここは毎朝、しっかり掃除をして水を撒き、玄関脇に塩を備えている。店前を通るだけでもすがすがしい。主人の姿勢が伝わってくる。

 数日前、夜の報道番組のこと。平塚で起きた、50代の女が実の娘を殺害し、義理の息子が自殺し、他に3人の遺体が発見された事件がとりあげられていた。
 このときゲストで招かれたコメンテーターの発言には首を傾げざるをえなかった。
 彼は、この女が50代半ば、団塊世代の一番最後あたりに属することを指摘したうえで、団塊世代は、自分の置かれた困難を、周囲のせいにしたがる傾向がある、といった趣旨のことを言っていた。団塊世代への警鐘である。
 この人は自らもくくられる団塊世代にたいして、このところ、ずっと発言をしている。定年退職を迎え、これからがほんとうに生き方を問われるのではないか、というように。これまでのそうした発言にたいして異を挟む気持ちはないし、共感も覚えている。
 しかし、この日の発言には二つの問題があるように思う。
 ひとつは、平塚の事件をそのまま団塊世代問題へと横すべりさせてしまうこと。
 もうひとつは、団塊世代は、自らの困難を周囲や社会のせいにしたがる、というとらえ方。

 団塊世代だろうが、他の世代だろうが、そういう傾向や、それが強い人はいるだろう。 このコメンテーターはかつて存在した全共闘運動あたりを念頭に、そういう認識をしているのかもしれないが、そもそも全共闘的運動に関わった人は当時でもごく少数だった。また、全共闘的運動では自らの困難を周囲や社会のせいにするのではなく、社会を批判しても、それを支えているのが自らでもあるという痛苦の念から出発していた。つまり、社会批判は自らをどう変えどう生きるのかという問いともにしかありえなかった。責任を周囲に押しつけてみずからを守るということとは異なものであった。
 平塚事件を団塊世代論へとつなげるのは、あまりにも飛躍がありすぎる。テレビというメディアで短時間で語ることの困難もあるのだろうが。
 雑誌特集でも、テレビでも、団塊世代論が花盛りだが、団塊世代にかぎらず、世代論というのはなかなか難しい。

2006年5月 6日 (土)

半月 そして地球支配

 夜、スイミングのあと、ジャグジーから空を仰ぐ。
 連休中のせいか、ここ数日澄んだ夜空。そこに半月が上っている。
 見上げ眺める月は、古来変わらずに見えていたはずだ。ただ、ひとつ変わったことは、その月面に人間という類が着地したということ。

 執筆のため、たまたま読んでいた旧約聖書の創世記にあるフレーズが浮かんでくる。
 「神は自分にかたどって人を創造した。男と女を創造した。そして人を祝福して言う。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」
 神は人間が地球を支配できるようにしたてた。しかし、蛇にそそのかされ、知恵の実を食べてしまい、さまざまな苦しみを人間は負うことになる。そこから苦役としての労働も強いられるようになった、というわけだ。

 いいかえれば、本来だったら地球を支配できるように人間を創造していたということになる。労働は苦役だという考え、そしてそもそも人間が地球を支配できるはずだったという考え方は、旧約から新約を経て今日まで生き続けている。
 そして、原罪で失った楽園を取り戻すかのように、人間は地球の支配者を目指しているようにみえる。とりわけ欧米の思想の中には、それをもろに展開しているものもある。たとえば、ナチスの全体主義を批判するハンナ・アレントさんですら、その流れをしっかり受け継いでいる。「労働」を批判し、「仕事」を肯定する20世紀の哲学者ハンナ・アレントさんは、「労働とは自然と地球の召使にすぎない」として労働に否定的だが、仕事を通じて人間は「地球全体の支配者、主人として振舞うことができる」 としている。つまるところ、地球全体の支配者、主人であろうとすることに価値を置いている(「日経マスターズ」5月号拙稿)。それは旧約に語られていることとも重なっている。

 でも、ほんとうは地球の主人であろうとすること、それが可能だとすることこそ、根底的な陥穽が潜んでいるのではないだろうか。それはエコロジストの範囲を超えた、知の根底的な課題でもあるはずなのだ。
http://toyodasha.in.coocan.jp/

写真は京都・新風館

P1010002

2006年5月 4日 (木)

ブッカー・リトル

 休日の朝、ブッカー・リトルのアルバムを流す。
 彼のアルバムで一番好きなのは、「BOOKER LITTLE」。ワンホーンでブッカーのトランペットが哀しく、きれいなラインを描くので好きだ。決して甘く流れずに凛とした立ち姿。もちろんベースのスコット・ラファロの参加もいまとなっては奇跡のよう。

 でも、京都の部屋にはそのアルバムはないばかりか、そもそも誰のアルバムであれ、CDというものがほとんどない。
 東京からもってきた数枚のCDのうちの1枚が、ブッカー・リトルの2枚のアルバムを合体した輸入もの。他にないし、ジャズを聴きたいときはそれをかけることになる。 
 ジョージ・コールマンをフィーチャリングした「BOOKER LITTLE AND FRIEND」と、「BOOKER LITTLE 4 & MAX ROACH」が合わさっている。
 聴きこむと、ワンホーンの「BOOKER LITTLE」にひけをとらない。

 仕事を終えたあと寝る前、あるいは朝、たまにこのCDをかける。
 ブッカー・リトルは、朗々と歌い、あるいは疾駆する。テナーのジョージ・コールマンが負けじと続き、トロンボーンのジュリアン・プリースターも呼応する。
 テナー、トロンボーンとで奏でる、調和をあえて少しだけ外した音の層が、哀しく美しい。ハーモニー、リズム、展開……、たぶんこれはあえてフリージャズへの破裂へ踏み込むことをよしとしないところでとどまったぎりぎりの美しさなのだろう。だからこそ、美しく哀しく、それでいて甘くならない。安定した調性とメロディーラインを壊し、それでいて美しくもある、ひとつの極み。
 半世紀を経た今でも、新しさを失わない。ブッカー・リトルは23歳、活動したのはたしか3年ほどで亡くなっている。
 1961年夏の録音。

 ブッカー・リトルらが奏でる音の重なりが、部屋から見える鞍馬山、北山の稜線へと流れていく。皐月。

 自転車で鞍馬口通を西へ。堀川紫明から堀川北大路をへて、大徳寺へ。特別公開の興臨院へ。以前一度入った塔頭。

P1010010_1

 京都駅へ向かう前、京都御所の定番ベンチに座り、iPod。ザ・ゴールデン・カップスの歌が流れる。皐月晴れにふさわしくないはずの「過ぎ去りし恋」「ルシール」「長い髪の少女」。でも、これほど澄みきった青空には、サウンドが突き抜けてすっきり響く。

P1010019

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ